正義の見られ方。

  「買ってはいけない」論争をそろそろ取り上げないといけないかなあ、と思って資料をあたったりしているうちに結構経ってしまった。

 「買ってはいけない」論争は、いちおう日垣隆氏を知るきっかけになった話題である。もう少しいえば、俺が日垣氏を「買う」ことになった黒歴史のはじまりになったきっかけでもある。

 なので、ここについては、それなりに説得力のあることをやっているだろう、というのが一応自分の考えなのである。

 今文庫本「それは違う!」に収録されている「買ってはいけない」批判を読んでみても、そこまで見解として食い違っているところがあるわけではない。だいたいは、うんそうだなあと頷けるところが多い。

 ただ、では、当時の日垣氏が、そこまですぐれた批判の書き手だったのか。あるいは、「買ってはいけない」を向こうに回して批判をうまくやってみせる人だったのか。となると、これは別問題となってくる。

 今、当時のいろんな文献を当たってみると、当時から日垣氏がクリティックとしてそこまで高評価を得ていなかった形跡もそこここに見られる。

民俗学者大月隆寛氏の場合。

 たとえば、当時「「買ってはいけない」は買ってはいけない」というタイトルで買ってはいけないを真っ向から批判したブックレットには何人かの文化人的な人がコラムを寄せているのだが、その中の一人の大月隆寛氏が基本的には「買ってはいけない」がインチキ本であるというラインは保ちつつも、それに批判を加えた日垣氏には意外に高い評価をしていない。

日垣隆などは力戦敢闘、このガイキチ連中とよくわたりあっているけれども、でも、それだけじゃ勝てません。判定にもち込むことはできても、奴らそのものを笑いものにはできない。どう見たってこの本の著者三人とも、眼つきがイッちゃってるじゃないですか。

 要するに言ってること正しいけどそれだけだよ、というような話で、だからどうしたという感はある。正しいならそれはそれで価値だと思うし。というか、それならこんなブログやってる俺は何なのだ。「正義には別の正義を、では勝てないんです」(だから側面から笑い飛ばさないとダメ)なんて主張も、なんだか今となっては色あせた論の張り方である。まあナチュラルボーン冷笑系の大月氏ことキングビスケット氏のそこを衝いても仕方ないのかもしれない。ちなみにこの本の著者は三人ではなく、四人である。巻末の座談会で顔出ししているのは三人で、もう一人の山中登志子氏は編集部員で司会者として出席しているせいか、顔が出ていないので眼つきを云々できないのは確かですけど。

 ついでに言うなら、この座談会で使われている著者の内三人の写真、別に目がイッてる表情ではないんだよなあ。むろん、発言や主張にはかなりの疑問があるメンツではあるが、そういうおかしさが写真から読み取れるような表情をしているかというと、そんなことはない。というか、週刊金曜日だってメディアの一つなんだから、そんなふざけた写真を使うほど愚かではないと思うし。ちょっと酷い印象操作ではないか。トンデモ本だからって何言ってもいいわけじゃなかろう。

一水会代表、鈴木邦男氏の場合。

 もう少しほかのところに目を移してみると、同書に同じくコラムを寄せている一水会代表の鈴木邦男氏がもう少しはっきり日垣氏批判を繰り広げている。

 鈴木氏は、「買ってはいけない」が控えめに警告したところで売れないからセンセーショナルに振舞った、ハッタリ本であるということを指摘した上で、こう切り替えしている。

だから、「偉い、偉い。問題提起としては実に貴重だ」と言っていればいいんだ。ところが、このヒステリックな本に対し、同じ次元でヒステリックに対応したのが日垣隆だ。だから、'60年代激突風になったし、マンガ的なケンカになったのだ。「まあ、真実はこの中間にあるのだろうな」と賢い読者は思っているのではないだろうか。
(同書、p163)

  マンガ的なケンカというのは、「サンデー毎日」に当時掲載された日垣氏と「買ってはいけない」執筆陣による対談のことだ。これについては最近原典を入手したので今度紹介したいのだが、評価については鈴木氏にかなり近い。というか、たぶん日垣氏を売り出すきっかけになったきっかけであろうこの「最高の功績」についてもう少し見直さなければならないかもしれないなと思ったのが実はこれであって。問題提起としては間違いが多すぎる、という意味で鈴木氏には全面同意はできないところもあるのだが、かなり共感を持てる評価である、今となっては。

 鈴木氏は、このもう少し前、というかコラムの書き出し部分でこう書いている。

久しぶりに不愉快な本を読んだ。そして、久しぶりに不愉快な論争を見た。何だ、こいつらは、と思った。

 (同書、p163)

 不愉快な本とは「買ってはいけない」であり、不愉快な論争とは「サンデー毎日」の対談である。そして、「今時、こんなレッテルの貼り合いの「ガキのケンカ」があったのかと驚いた。少しでも相手の言い分を認めたら自分たちは全否定されると怯え、相手を100%悪者にしようと口を極めて罵る。これでは30年前の「左右激突ではないか」」とまで言う。

 鈴木氏にまぜっかえすとするならば、「今時」と言ってしまうこんなスタイルは残念ながら、それから20年ほどたったインターネットでは日常茶飯事に見られる、ということだ。それはともかく、「買ってはいけない」の批判は同書でいろんな人にされているので「買ってはいけない」がヒドイというのは理解できるとして、それに対する日垣氏についての評価も相当だ。

 鈴木氏の日垣氏の「サンデー毎日」での語り口について、さらに踏み込んでこう評価している。

「いけない」派に劣らず、あるいはそれ以上に「インチキだ」派の日垣は感情的で教条的なんだ。食品などの危険性も認識しているのだから、共通の土俵はあるはずなのに、「激突討論」になると、「あなたはファシズムだ」「煽動ジャーナリズムだ」「ほとんど『資本論』の世界だ」……と罵倒する。そしてこれは企業に対する「言論テロ」だとまで言う。おいおい、、と思ってしまう。こんな奴に守ってもらうんじゃ企業の方も迷惑だろう。

(同書、p164)

 日垣氏の批判の中では、山崎製パンのパンはほかに比べて添加物が多いからなるべく買わないとか、キッチンハイターやカビキラーも買わないというような見解も示しており、このあたりが「あなたがた歩み寄れるところあるんじゃないの?」という評価につながっているわけだ。なのにただぶつかり合うためだけの積極的な話のない、不毛な論争ではないか、とこういうところが鈴木氏の見解のようである。

 これを初めて読んだときは、左右対立なんて意識していなかったし、「買ってはいけない」に不快感を持っていたから、ほかのコラムの書き手や本文に比べてあまり身をいれて目を通さなかった記憶がある。今読み返せばほかの書き手も左右対立、というか「買ってはいけない」と左派イデオロギーの関係についてはかなり意識して書かれていることがわかるのだが、当時はあんまり気にしなかったのだ。ソルビン酸がどうとか、赤色2号がどうとか、そういうところだけに注目して読んでいたのである。そういう「理系少年」であった。

 さて、鈴木氏にここまで言わせた「サンデー毎日」の対談については、リスク論の専門家である安井至氏もかなりビミョーな評価をしている。とはいえ、これはかなり判断が難しく、日垣氏を批判したといいにくいところもあるのだが、ともあれ紹介する。

 環境学者、安井至氏の場合

 安井氏は「市民のための環境学ガイド」というページを主宰しており、その時々の環境問題にまつわるさまざまな話題を論評している。スタイルとしては昔の「個人ホームページ」時代の日記風で、こういうスタイルのサイトってやっぱり安心するなあとか思ってしまう。

 そんなことはどうでもいいのだが、このサイトで安井氏は3回、「買ってはいけない」騒動についてとりあげている。さすがに99年というとだいぶ前なので、「市民のための環境学ガイド書庫」というページにおさめられている。

 まず一回目の登場は「週刊金曜日「買ってはいけない」評 07.24.99」という回で、タイトルからわかるように「買ってはいけない」そのものについての論評である。

 安井氏も「買ってはいけない」を問題提起としては一定の評価をしつつ、いろいろな問題点を指摘している。個人的には、「ある種の商品評論家がターゲットにしているものばかりが目立つ」「もはや古い問題とでも言うべき対象ばかり」という指摘が興味深い。

 この回では、日垣氏の名前は本文中には登場しない。しないのだが、この文章には追記がある。当初の評価が高すぎる、というかよろしくない、という判断によるようだ。今回の話でのポイントは実はここなのだが、追記をした理由を示している部分でもあるのでそういう意味でも注目するポイントである。

結論的には、是非お読みいただきたい。でも、お買いになるこはお奨めしません、と変更します。こんな変更をした理由は、サンデー毎日の9・5号の、船瀬俊介&渡辺雄二両氏 vs.日垣隆氏の余りにも見苦しい言い争いを読んでしまったためです。2名の著者の広告塔としての機能を本HPが果たすことに対する拒否です。
週刊金曜日「買ってはいけない」評 07.24.99 /市民のための環境学ガイド書庫。「お買いになるこは」は原文ママ

 本文では日垣氏を特に批判していないし、この注釈もつまりこの書き手のバックアップになってはたまらないわという話なのでどちらかというと「買ってはいけない」側への非難である。が、「船瀬俊介&渡辺雄二両氏 vs.日垣隆氏の余りにも見苦しい言い争い」という表現には、含みが感じられる。

 三回目に取り上げた際にも

先日発売のサンデー毎日9・5号には、船瀬俊介&渡辺雄二両氏 vs. 日垣 隆氏の泥仕合大バトルが掲載された。その議論は余りにひどくて、テレビにおける、サッチーvs.ミッチー騒動を思い出して、嫌悪感一杯の状態になったので、この話題は、今回で最後とします。

「買ってはいけない」泥仕合&企業対応 08.25.99/市民のための環境学ガイド書庫)

  というわけで、少なくとも「サンデー毎日」での論争については、日垣氏についてもどうも高く評価していないところがうかがえる。この回では主に企業の対応について取り上げており、「買ってはいけない」対応に追われる企業に同情しつつも、それなりに手厳しい批判をしている。

 残る二回目は、これはまるまる日垣氏についての回となっている。

「文藝春秋」に掲載された日垣氏の「買ってはいけない」批判の記事を論評しているのだが、しかしこれはこれでいまいち歯切れが悪い。

 立ち位置としては、「真面目な大月氏」といえばいいのだろうか。まず、大枠のところの問題意識は日垣氏も共有しているため、批判はどうしても鈍くなってしまうという指摘。

日垣氏自身も、ある種の商品の無意味さには同感しているところがあるからでしょう、矛先がなんとなく鈍ってしまうという感じでした。

文藝春秋の「買ってはいけない」批判 08.11.99/市民のための環境学ガイド書庫)

  また、「買ってはいけない」側がそこまで大真面目に買ってはいけないと主張しているわけでもなさそうで、そこに真面目に切り込んだ日垣氏にそこまで意味があるのだろうかという疑問を投げかけている。

今回の話、こんな風に理解した。まず、金曜日側だが、こちらもそんなに真剣に取り組んでいる訳ではなく、ゲーム感覚あるいは娯楽感覚でやっているような気がする。「少々過激だが、自分たちは社会に害を生み出してはいない。ある特定の消費者に対する情報提供サービスをやっているだけだ」、みたいな軽い感覚なのではないだろうか。それでついでに、「原稿料が稼げる」、と思っているのだろう。
 こんな軽い「買ってはいけない」側著者のゲーム感覚を、力ずくで切ろうとしても、それは無理だ、ということを結果的に証明してしまったような気がする。いわゆる「のれんに腕押し状態」。

(同ページより)

金曜日側は自分たちをマイナーであると自認していて、自分たちが書いた本を買った普通(大多数)の人達も、だからといって、その商品を買わなくなる訳でもなく、したがって、誰が被害を受ける訳でもない。取り上げた大部分の商品はもともとそんな重大な商品ではない。所詮「金曜日」は、ある特定の人々のための娯楽と趣味の本である。こんな感じの著者達の見切りに対して、日垣氏は新しい概念を提示できなかったように思います。

 (同ページより)

  というわけで、「ネタにマジレスwww」と要約してしまえるという意味では大月氏に近い見解ではあるのだが、だからといって野放しにしておくべきでもないだろう、というあたりで話を収束させている。

 というわけで、当時から日垣氏の批判は「ヒステリック」であり、「イデオロギーのぶつかり合い」であるかのように読まれている文脈は確かにあったし、一方で「あんな批判で意味があるのか」という形での切り方も確かにあったのである。

 これらの評価について、日垣氏が目立った反論をしたという形跡はない。1999年ごろそれ自体は知らないのだが、2000年代初頭ごろには日垣氏のサイトには「罵詈雑言への返答」コーナーがあり、日垣氏についてなされた批判への反論が掲載されていた(その一部は「それは違う!」文庫本版にも収録されている)のだが、これらの人への反論は見なかったように思う。

 別に全部について反論する必要はないのでそれ自体は良いと思うのだが、いっぽうで「買ってはいけない」批判に寄せられた批判について、反論していたケースもある。これについては次回紹介したい。

正義の見方

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買ってはいけない (『週刊金曜日』ブックレット)

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「買ってはいけない」は買ってはいけない (夏目BOOKLET)

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それは違う! (文春文庫)

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民俗学という不幸

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〈愛国心〉に気をつけろ! (岩波ブックレット)

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市民のための環境学入門 (丸善ライブラリー 276)

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