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君とは致命的なカブリがある。

 前回にひきつづき、日垣氏の「さらば二〇世紀の迷著たち」という文章を見ていくことにしたい。なお、タイトルは以後「さらばー」と省略させてもらうことにする。

 さてこの「さらばー」であるが、たんに本を取り上げて批判しているだけではなく、それらが迷著となってしまった、その根底にあるものを探っていこうとする、という形で問題提起をいくつかしている。まあ、単に書籍を挙げただけだとただの悪口になってしまうので、それは妥当な話の組み立て方だと思う。
 で、挙げている問題点の一つに、「イデオロギー論争に基づいた、白か黒かの二分思考」がある。それ自体は別に悪いことではない。なるほどなあ、と思う。まあ、どうも最近のインターネットなどでは、こういう考え方が一人歩きしてるところがなきしにもあらずだよなあ、と思うけれど、それはおいといて。また、資本主義か社会主義かというイデオロギー論争、にスポットを当てているのにもかかわらず登場する文章が社会主義を擁護する側のものばかりなのは気にかかるが(ちょっと記憶をたどるだけでも逆の立場の人で渡辺昇一とか八木秀次とか浮かぶんだが)それもおいといて。
 ただ気になるのは、この問題点をめぐって挙げられてくる書籍についてだ。これ、かつて読んだときは気にならなかったのだが、今となってみてみると、登場する文章がことごとくある本の中にほぼ同様に、あるいは似たような形で登場しているのだ。

 その本とは稲垣武「悪魔祓いの戦後史」である。

 

「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任 (文春文庫)

「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任 (文春文庫)

 

 

 

「悪魔祓い」の戦後史

「悪魔祓い」の戦後史

 

 

「悪魔祓いの戦後史」と「さらば二十世紀の迷著たち」

 「悪魔祓いの戦後史」は、ソ連が崩壊した後になってから、かつての「進歩的文化人」、つまり今風に言えばサヨク文化人が社会主義陣営のやったことについてどういう発言・評価をしていたか、について追ったものである。ようするに「北朝鮮は地上の楽園っていってたサヨクを追及する」みたいな本だ(実際その話題にもページが割かれている)。

 稲垣氏の本についても文章のこまごまとしたところに多少思うところがないわけでもないのだが、それは今回は関係ないのでさておく。この「悪魔祓いの戦後史」(以下「悪魔ー」)はかつて雑誌などに書かれた記事や論文を検証材料としているので、さまざまな著者の文章が引用されている。「さらばー」の引用箇所とこれが、妙に似通っているのだ。
 もちろん全部ではない。だいたい、「悪魔ー」は文庫本版で500ページ以上の分厚い本である。同じく文庫本版で20pほどの「さらばー」がそれを逐一取り込んでいるわけはない。

 「さらばー」の中でのイデオロギーの問題、特に東西対立をめぐってのそれに基づいた迷著は、第3節「北朝鮮は地上の楽園だったのか」に多く扱われている。ま、そこでなにを言おうとしていたかというのは、タイトルからも容易に想像がつくんでないかと思う。

 この節には、17冊の本が取り上げられている。このうち、遠山茂樹他「昭和史」、「家永日本史の検定」の大江志乃夫の担当部分、小田実「私と朝鮮」、田中寿美子「新しい家庭の創造」、寺尾五郎「38度線の北」、以上5冊の引用箇所が稲垣本と重複しているものだ。

 具体的にはこんな感じ*1*2

遠山茂樹今井清一藤原彰の「昭和史」(岩波新書、五五年初版)は「(五〇年六月)二三日、在日アメリカ空軍戦闘機部隊は九州に集結した。そして二五日、北朝鮮軍が侵略したという理由で韓国軍は三八度線を越えて進撃した」と記述している」

(「悪魔祓いの戦後史」p98)

《北鮮軍(ママ)が侵略したという理由で韓国軍は三八度線を越えて進撃を開始した。(遠山茂樹ほか『昭和史』岩波新書、五五年。なお、『昭和史 新版』五九年では「北鮮軍」は「北朝鮮軍」」と改められている)》

(「偽善系」p168。筆者注:「ママ」は元々は「北鮮軍」のルビとしてふられている)

朝鮮戦争がアメリカ軍による侵略戦争であるという有力な学説もあるが、それをふくめ学説としては、南朝鮮側と北朝鮮側のいずれが戦端を開いたかはともかく、朝鮮民族内部の戦争として開始されたことを否定するものはいない」と書いている。」 (「悪魔祓いの戦後史」p499)

「同じ遠山茂樹らによる『家永日本史の検定』(三省堂、七六年)では、こんな詭弁を大江志乃夫氏が開陳している。 《南朝鮮側と北朝鮮側のいずれが戦端を開いたかはともかく、朝鮮民族内部の戦争として開始されたことを否定するものはいない。》」

(「偽善系」p168)

「たとえば小田はこう書く。 「彼らのくらしにはあの悪夢のごとき税金というものがまるっきりない。これは社会主義国をふくめて世界のほかの国にはまだどこにも見られないことなので特筆大書しておきたいが、そんなことを言えば、人びとのくらしの基本である食糧について『北朝鮮』がほとんど完全に自給できるくにであることも述べておかねばならないだろう」」

(「悪魔祓いの戦後史」,p273)

「《人びとにとって彼ら自身が金日成さんとともにつくり上げて来た自分たちの社会主義(筆者注:日垣氏自身による「中略」含め6行略)彼らのくらしにはあの悪夢のごとき税金というものがまるっきりない。》(小田実『私と朝鮮』筑摩書房、七七年)」 (「偽善系」p172)

「田中はまた同書で、「ソビエトにも不良少年がいると雑誌などで宣伝されていますけど、本当ですか?」との問いに対してこう答えている。 「ないころはないけれど、日本やアメリカのように非行少年が横行するという状態ではありませんね。何といっても、人間による人間の搾取関係が基本的に制度としてのぞかれた社会ですから、まじめな人間が失業して食えないという資本主義国とちがって、不良少年が発生する経済的な条件はのぞかれています」 」

(「悪魔祓いの戦後史」,p35)

《「(ソ連に非行や犯罪は)ないころはないけれど、日本やアメリカのように非行少年が横行するという状態ではありませんね。何といっても、人間による人間の搾取関係が基本的に制度としてのぞかれた社会ですから、まじめな人間が失業して食えないという資本主義国とちがって、不良少年が発生する経済的な条件はのぞかれています」》(田中寿美子『新しい家庭の創造』岩波新書、六四年)」 (「偽善系」p173-174)

「また寺尾は、九月九日の建国一〇周年の祭典の夜、平壌の街を「ただもううれしげに歩き回っている」民衆に聞いた話を書いている。 「私はそのおびただしい人の流れにまきこまれながら、全く手当り次第に、これはと思う人間をつかまえては簡単な質問をこころみる。こんな時には、人は決して公式的な対外的宣伝文句なんて吐かないものだ。思いつくことを前後の脈絡もなく、自分の言葉の効果を計ることもせず、酔ったようにしゃべるものである。  だが誰の言葉もみんな結局は一つのことをいっていた。 『とにかく自分でも信じられないんだ。日ましに自分の生活がグングンよくなるんだ。予想もしなかった生活になっていくんだ。うれしくて面白くて張り切り続けだ』」

(「悪魔祓いの戦後史」,p254-255)

「《(ピョンヤンでは)誰の言葉もみんな結局は一つのことをいっていた。「とにかく自分でも信じられないんだ。日ましに自分の生活がグングンよくなるんだ。予想もしなかった生活になっていくんだ。うれしくて面白くて張り切り続けだ」》(寺尾五郎『38度線の北』)」

(「偽善系」p174)

 小田氏の書籍からの引用は少しずれていて、たまたま一文が重複しているだけなので他とはちょっと事情が違うと思うが、他は見事に重複している、というか日垣氏の引用のほうが引用範囲が短くなっている(《》でくくったのが元の引用全文である)。稲垣本の下敷きになっているのは雑誌「諸君!」に92年~94年にわたってされていた連載なので、当然こちらが先である。

日垣氏の批判のツッコミが浅い

 そりゃ、批判に適当な箇所(特に、端的に一部を引いてズバッとやれるような場所)などだれがやってもある程度似通ってくるといえば確かにそうかもしれない。ただ、少なくとも、ここまで似たような引用を並べて「一般には批判されたことのないものばかり」と言われてもちょっと……と思ってしまうのは、私だけではないと思う。

 いや、一般的にはなんとなく認識されていたものを改めて突っ込んで検証してみた、というのならそれもありかもしれない。ただ、そういう文脈として気になるのは、似通っているだけならまだしも、批判としては稲垣氏の方が綿密にやっているという点である。

 例えば田中寿美子「新しい家庭の創造」という本について。

 

新しい家庭の創造―ソビエトの婦人と生活 (1964年) (岩波新書)

新しい家庭の創造―ソビエトの婦人と生活 (1964年) (岩波新書)

 

 日垣氏は引用だけして、小田実氏の「何でも見てやろう」のなかの一文と並べて「夢見心地と座学による思い込み」と断定したコメントしかしていない。まあ先入観にとらわれてそうだし、あまり実証に基づいた文章ではなさそうだなあというのは読んで取れる(というかこれはソ連人との一問一答シーンなのでそういう意味では適当ではないかもしれないが、まあ「それをそのまま本にしてしまっている」という意味で)。

 しかしそれはあくまで「そうだろうなあ」である。ソ連についてのアネクドートや断片的な知識を念頭に置いた上での、「夢見心地(悪夢的な意味で)と思い込み」である。ついでに座学によるというほど大層なバックボーンもない。

 いっぽう、稲垣氏はこの引用を紹介したあと、続けて実際のソビエトには不良だっているのだ、と田中氏の文章に反する不良の実態について紹介している。もちろんそれだって座学であり、それが間違っているという可能性まで論じ出したら大変だけど、そこまでは書き手も読み手も期待してないだろうからおいとくとすれば、ちゃんと稲垣氏は読み手の思い込みに頼らないで、自分の批判の根拠を説明しているわけだ。こう書いてしまうと当たり前のことじゃないかと思えてしまうかもしれないが、実際日垣氏の批判はそこが欠落している。

 小田実氏についての批判にしても、やっぱり似たことが言える。こちらは日垣氏も多少は具体的な批判もしているのだが、それでも「税金のない国家など存在するわけがない」「当時北朝鮮の経済は破綻していた」程度。いっぽう、稲垣氏のほうがベ平連から北朝鮮についての著書におけるスタンスのありかたまで幅広い問題点を扱っている。もちろんそれはページ数の問題でもあろう。短い文章にたくさんの「迷著」をつめこんだ中では、ちゃんと批判しているほうといえばいえる。

 ただこうなると、「さらば二十世紀の迷著たち」のこのあたりの記述、いったいなんなんだろうということになってしまう。つまり、稲垣氏の著書ですでに綿密な批判がなされた本を、改めてより短い引用だけするにとどめて「迷著」として笑い飛ばす、という構造とはなんぞやと。綿密な批判の部分をそっくりはしょって、「名前を挙げてやり玉に挙げる」部分だけを残して、そのうえで「これまで表立って批判されたことがない書籍」群の一部というふれこみにしてしまう…… 箇条書きマジックかもしれないが、どうもあんまり素性のよい批判とは思えない。

 読者頼みのブックレビュー

 この日垣氏の「さらばー」、批評とか書評としてはわかりやすいようであんまりわかりやすいものではない。わかりやすいように見えるのは、こちらの持っている思い込みとかイメージに立証責任を預けてしまっているので、「はいはいあれね」と了解できてしまうからだ。だから、さっきの田中氏のところでも言ったように、ソ連ってこんなんだよな、というイメージがない人が読んでもさっぱり分からない批判になってしまっている。

 実は、この「さらばー」を初めて読んだとき、引用されている元の本の記述のおかしさにはそれなりに納得したものの、日垣氏本人が書いている地の文については半分くらいはいまいちピンとこないところがあった。それでそこそこ面白いとか評価しちゃうからいいかげんなものである。
 しかし、どうしてピンとこなかったか、理由は単純である。批判の文脈をほとんど示していない箇所が多いので、まだそれほど本を読んだことのなかった私には何を言いたいか分からなかったに決まっているのだ。

 補遺っぽい何か

 最後に、この節で上がっていた他の本についてもふれておこう。

 上で挙げたのは、17冊中5冊。ということで、この第3節に登場する本は残り12冊である。

 この12冊のうち、4冊は日本共産党系の社会科学用語辞典を版違いで比べてスターリン朝鮮戦争といった語句の解説がどう変わって行ったかを追ったものである。だから実質は一つだ。

 のこり8冊のうち4冊はどうかというと、これは経営者の自慢本である。話の流れが読みにくいが、北朝鮮の絶賛本のようなものはようするに広報的なものをそのまま特に裏をとったり検証したりすることなく、引き写して聞き書きしてしまった結果できあがった「迷著」だ、という話があって、そこから「聞き書き」つながりで自慢本が出てくるためこんなものが登場している。それ自体は一理あるとしても、それにしても共産党系の辞典や経営者のパブ本を「名著」扱いする人ってどれくらいいるんだろうか。

 ともあれ、残りの4冊がそれに付け加えて日垣氏が新たに紹介している本、ということになる。もっともその中にも本多勝一「中国の旅」などが登場していて、しかも具体的な批判といえば中国共産党によってセッティングされたのは無視できないのである、という程度なので、やっぱりこれで「これまで表立って批判されたことがない」って…… もういいか、このフレーズ。

 

キミとは致命的なズレがある (ガガガ文庫)

キミとは致命的なズレがある (ガガガ文庫)

 

 

 

*1:なお、現在では「悪魔ー」はPHP出版から新装版が出ているとのことだが、私が持っているのは文春文庫版なので引用はそちらに基づいている

*2:オリジナルの文章では、日垣氏は書名、稲垣氏は人名を太ゴチックで表記している