あらこんなところにネタ元が。

少し前のエントリーで、「さらば二十世紀の迷著たち」の進歩的文化人批判についてのネタがずいぶんと「悪魔祓いの戦後史」とかぶっているという話を書いた。

 このネタに気付いた後、なんとなく「日垣隆 稲垣武」で検索をかけてみたところ、ひっかかった2chの日垣スレで興味深い記述を見つけた。ちなみに、2ch日垣スレはいっときかなりよく見に行っていたことがあるが、この当時は自分は出入りしていない。

544 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/05 12:38
偽善系の「さらば二十世紀の迷著たち」北朝鮮マンセー文化人批判は
叩かれている奴らの人選といい、引用されている部分といい、
稲垣武「悪魔祓いの戦後史」のパクリ。
特に「38度線の北」批判は現物手に入れず孫引きしてる可能性大。
だいたい「ところで、寺尾五郎って誰だ。」って何だよ。
批判しておいてこの人誰ですかはねえだろ。
アンチョコ頼りってことを告白しているようなもんだ。


545 名前: 新垣里沙 投稿日: 03/04/05 23:33
>>544
>だいたい「ところで、寺尾五郎って誰だ。」って何だよ

道路公団民営化委員の川本裕子に対してもメルマガで
「あのひと誰、ないもしてないじゃん」みたいなことかましたけど

 

547 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/06 01:17
>>545
「あんた誰よ?」みたいな皮肉だってこと?
だとしても、そこで言う意図がわからん。過去の人だし、普通の読者には
「さあ?当時北朝鮮せんにゅう記書ける地位にいたんだからそれなりの人だったんじゃないの?」
としか思いようがないから皮肉として成立しないと思うけど。


ところで、新垣里沙って誰だw


548 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/07 12:26
>>544
そうそう、そうなんだよ。あれはパクリっぽい。


549 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/07 14:24
偽善系あとがきより
”「人はなぜ『迷著』にだまされるのか」が仙頭寿顕さんの企画編集で
「本の話」に掲載されたときは二十枚の原稿(×四百字)だった。”

「さらば二十世紀の迷著たち」はこれに加筆したらしい。

「悪魔祓い」の戦後史あとがき
”資料集めその他に労を惜しまず、終始協力して頂き、単行本上梓にも努力していただいた
仙頭寿顕前編集次長に心からの謝意を申しあげる。”

結局、資料提供した文春の仙頭氏が有能だったということでした。
しかし、100冊も斬るのは大変だったというのは理解できるが、
同じ資料を使うならもっと別の部分を引用して違った切り口で攻めて欲しかった。


550 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/07 19:25

田原総一朗について

>「週刊読書人」九九年四月二日号「田原総一朗の取材ノート」は、
>「週刊朝日」九九年四月二日号「田原総一朗のギロン堂!」を六二%圧縮
>しただけだ。氏は、どちらを舐めたのだろうか。(『敢闘言』文春文庫p197)

日垣氏は、自分なりの倫理観で、こうやって田原総一郎なんかを
批判してきたのかと思ったけども、最近の活動をみると、
結局、「そのおいしいポジションを俺によこせ!」って、ことだったわけね。

これって、要するに
五十歩百歩、
目くそ、鼻くそを笑う

あるいは、

偽善者が偽善者を笑う・・・。

日垣隆総合スレッド 3

 どうも、編集者が同じだったらしい。どっちも持っている本なのだが、これを見て改めてチェックするまでその点には気付かなかった。ま、あとがきだし(と言い訳する)。というか、正直稲垣武氏の本がエラいの、「よくここまで掘り起こしたもんだ」という執念にあると思っていたので、稲垣氏にはややがっかりである。その部分を抜くと、わりと「プンスカしている反共の人」でしかないし。

 ところで仙頭寿顕って誰だ(笑)ってことで、調べてみると、はてなキーワードにはこうある。っていうかはてなキーワードになるほど有名な人だったのか?

編集者、評論家。1959年高知県出身。中央大学法学部政治学科卒業後、松下政経塾、団体職員を経て文藝春秋入社、2004年『諸君!』編集長。里縞政彦、城島了(おうる)などの筆名で活動する。

仙頭寿顕とは - はてなキーワード

  けっこう若い人なのね(といってももう60近いが、稲垣氏の本が書かれたのが90年代前半なので)。そして、松下政経塾のサイトにも卒塾生として名前がある。略歴には「松下政経塾第3期生」とだけあり、それ以上の記述はない。

 2004年には、母校の中央大学の「Hakumonちゅうおう」 という広報誌に「古本屋で学んだ「戦後史」」という一文を寄せている。肩書は「諸君!」編集部統括次長とある。このなかで仙頭氏によって「悪魔ー」の編集をしたときの回想についても語られているのだが、

この本のために、何十年も前の雑誌論文や絶版本などをせっせと集めたのがもう十数年前のことだ。当時はインターネットの古本検索もなく、古本屋等をアトランダムに回るしかなかった。学生時代から古本屋通いは趣味だったから苦にもならず楽しい仕事だったが、刊行後も「北朝鮮拉致事件は原さんの件以外は根拠なし」と論じた大学教授がいたのには唖然としたものだ。そういう学者の粗雑な言論の責任をネチネチと追及する性癖は神保町界隈の古本屋散策から学んだといえようか。

随想おちこち「古本屋で学んだ「戦後史」」(Hakumonちゅうおう 2004 秋季特別号(中央大学)

 まあ私も似たようなメンタリティだからこんなブログをやっているわけなので、立ち位置や思想の違うところは違うところとして、気持ちは結構理解できるところがある。大学あたりでサークルの同級生などにいたら、けっこう仲良くしていたのかもしれない。それはそれとして、なるほどこのあたりがすべてのルーツということなのだろう。ちなみにはてなキーワードの著書一覧によると、この仙頭氏の著書の中には「日本に明日はない! 「左翼的気まぐれ」への挑戦」という本がある。1981年の刊行だ。タイトルだけで判断するのは危険だが、かなり「どういう人か」がうかがえるタイトルであるとも言える。

 また、この人は筆名による著書もけっこうあるようで、里縞政彦という筆名を使って1999年に書かれた「20世紀の嘘 書評で綴る新しい時代史」(自由者)という本もあるらしい。後者は日垣・稲垣-仙頭ラインについて考えるうえで関係がありそうな気もうかがわせるタイトルだ。そのうちに探してみたいところである。

 そのほか、個人ブログだったり2chのスレだったりするので、内容の妥当性についてなんともいえないし参考に掲げるにとどめておくけれど、いくつか以下のようなものが見つかった。

 なんでも「正論」の論文募集に応募していた過去もあった?とのこと。いちおう産経のリンクが張ってあったのだが、肝心のリンク先が404になっていて、それ以上の確認はとれなかった。

 ところで、この仙頭氏、上の個人ブログの中でもそんなことが言われているのだが、どうも末期「諸君!」のカラーを作った人として一部では認識されているらしい。廃刊したころにも、最末期は執筆者や語り口がいつになく変わってしまった、と語る文章を目にした記憶がある(ソース失念)。

 書評家の坪内祐三氏も、かつて「新潮45」にこんなことを書いていたことがある。少し長いのだが、引用してみたい。

今はなき「諸君!」で私は代表作(「1972」と「同時代も歴史である」)を連載し、30枚ぐらいの論考を何本も寄稿したけれど、私は「諸君!」の休刊を悲しんでいない。最後の何年か私は「諸君!」に1本も原稿を発表していない。同誌の中で私の居場所がなかったからだ。ある時期から「諸君!」は「正論」や「WiLL」と変らぬ雑誌になってしまったのだ(以前はもっと大人っぽかった、つまりふくらみがあったのに)。ある時期から、と書いたが、それはSという人が編集長になってからだ。もし私のかなりコアな読者がいたら、私が「三茶日記」(本の雑誌社)の122ページでこのSという人物について言及しているのを憶えているかもしれない。つまり、里縞政彦という人が「20世紀の嘘――書評で綴る新しい時代史」(自由社)で先に私が紹介した(谷沢さんや加地さんの愛読者である)朝日新聞のNさんが編集したムックの編集後記を取り上げて、いかにも朝日的な"機械主義的編集人"と批判していたのに対し、注の形で、「たぶんこの里縞という人は、別の名前で徳間書店から読書日記を刊行している人で、文春のSという編集者だと思う」と書いていたことを。

「文春的なものと朝日的なもの」、「新潮45」2014年12月号

 このSとは「仙頭」の頭文字Sなのだろう。CiNiiで坪内祐三氏が「諸君!」に寄稿していた記録をたどってみると、2009年6月号(休刊前の最終号)に「諸君!」の思い出話のような一文が寄せられている前は2004年までさかのぼるので、話とも一致する。さらにそれ以前になると、かなり頻繁に登場しているのだが(連載を持っていた、という関係もあるだろう)。この文章のつづきにはかつて「Sという人物」から著書を渡されたときの回想へとうつり、同じ右なのにずいぶん違うものだと思った、と評している。

 まあ、編集者はあくまで編集者であり、書き手ではない。日垣氏の文章は、あくまで日垣氏のものである。だから、こんな編集者に編集されたものなんて……なんていうつもりはない。

 ただ、それは一般論の話である。ここまで何回か見てきたように、「さらば二十世紀の迷著たち」の中のイデオロギー批判の部分は、こういう人物による「選書」を下敷きにして書かれた可能性が高いように思えるわけで……

正義と悪魔はどこにいる?

 今回は家永氏の教科書での、原爆投下に関する記述についてみていきたい。

 原爆が第二次世界大戦野中でどういう意味合いを果たしたかというのは今でもたまに話題になることがある。特にアメリカ人が「あれのおかげで終戦にいたった」などと発言して批判のまとになる、というのはちょっと前にもあった。まあ、日本が中国や韓国に対してとる態度の場合もそうだが、デリケートな問題なわけである。そういう話題を家永氏はどう扱っていたのか、ということになる。なにしろ、日垣氏の筆によれば、「広島・長崎に原爆を落とし市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っているらし」いというのだから、それはきっとひどく見るに堪えない書きぶりなのだろう、と思えるわけだが、さてどうなのか。

家永版「日本史」の場合

 しかし、いざ「検定不合格日本史」にあたってみると、実はこの教科書の中における原爆についての記述はそれほど長くない。それだけなら、それはそれで原爆を軽視している証左ではないかという見方もできるので、実際の文章を引用しながら考えてみよう。

これよりさき、1943年(昭和18年)イタリアが連合軍に降伏して、枢軸の一角がくずれた。1945年(昭和20年)5月、ついにドイツも崩壊し、ヨーロッパの戦争は終りを告げた。アメリカでは原子爆弾の発明が完成し、8月には最初の一弾が広島に、次いで第二弾が長崎に投下された。両市は瞬時にして壊滅し、何十万という市民が悲惨な死を遂げた。 (「検定不合格日本史」270p)

 これだけである。

 加えて、欄外では注釈がつけられている。「広島の人口は当時約40万であったが、その過半数の24万7千人が原子爆弾の犠牲となって死んだ。その後原子病が起って死んだ人の数を加えれば、この数字はいっそう大きくなる。」原子病、というのは放射能によって引き起こされた障害のことだろう。こういう呼び名も当時はあったようだ。

 しかしこの文章に、「正義がどちらにあるか」「どこに悪魔が宿っているか」について語っているそぶりは一切見られない。別に、引用を恣意的にしてそういう記述を隠しているのではない。原爆についての記述はこれだけしかないのだ。
 教科書検定による修正を受けいれた上で検定教科書として出版されたバージョンである「新日本史」(1966年版)では欄外の部分の記述の分量が増えていて、原爆での被害だけでなく第二次世界大戦全体での国民の被害について言及されるようになっている。具体的にはつぎのような文章。

一方、ヨーロッパでも、1943年(昭和18年)にはイタリアが連合軍に降伏し、1945年(昭和20年)5月には、ついにドイツも崩壊し、ヨーロッパでの戦争は終わった。アメリカは原子爆弾の発明を完成し、8月6日広島に、9日には長崎に、これを投下した。(「新日本史」257p)

日華戦争以来の戦闘員の死者は約150万、空襲による銃後の国民の死者は約30万に上った。中でも原子爆弾を受けた広島では、その当時だけで約40万の住民の半数を越える約25万の人々が悲惨な死を遂げたが、その後原子病が起こって死亡した数を加えれば、さらに多数に上るにちがいない。(同、260p)

 被害に関する記述についていえば、より丁寧になっているといえばいいだろうか。そして、日垣氏が読み取ったような、「 市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っている」さまはこちらにも見て取ることはむつかしいように思う。

他教科書の場合

 例によって、同じ時期の他の版元と著者による教科書での記述もみてみよう。

日本ははじめポツダム宣言を無視したが、8月6日、広島にアメリカの原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日ソ中立条約を破って日本に宣戦し、同時にポツダム宣言に加入した。翌9日、ソ連軍は満州に進撃をはじめ、長崎にはまたも原子爆弾が投下された。時野谷勝他「日本史」実教出版,1963 265p)

これ(引用者注:ポツダム宣言)に対して、日本政府はなお黙殺の態度をとったため、アメリカは日本を降伏させようとして、8月6日まず広島に、ついで9日には長崎に人類史上初の原子爆弾を投下した。これと同時に8日にはソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告して満州・朝鮮に侵入した。 (宝月圭吾他「詳説 日本史」山川出版社,1959 p357)

その内容(引用者注:ポツダム宣言の内容)は、日本にとってことのほかきびしく、鈴木内閣が受諾をためらっているとき、8月6日、恐怖の原子爆弾が広島に投ぜられた。8日には、ソ連ポツダム宣言に加わって参戦し、満州に進撃した。その翌日、長崎にも原子爆弾が落とされた。 (石井孝他「日本史」東京書籍, p308)

 これら3社と比べた時に、家永版はかなり淡々とした記述であることが目に付く。特に、ポツダム宣言を日本が受諾しようとしなかった点が抜けているため、アメリカが原子爆弾を一方的に落としたかのように読み取れるのは終戦への推移を語る上ではよくないのではないかと思われる。そこのところをはっきりさせないで書いたのは意図的なのかそうでないのかはわからない。そうでないのなら、何も文句を言われる筋合いはないはずで、かりにもし「意図的な」ものだとしたら…… それはどちらかというとアメリカのしたことに対する反感を強めるほうに働くのではないだろうか。もとより「ポツダム宣言を黙殺したこと」と「原爆なる新型爆弾の実験対象として大殺戮」がトレードオフのようなものとして語れないことはむろんなのだが。

 その点に注意して家永教科書の筆調を見ると、むしろ他の検定教科書と比べても感情を抑えつつ怒りがこもった文章としてとることができる。少なくとも「落とした側にのみ正義が宿っている」文章とは見えない。戦争に関する項目の中で、原爆被害の規模について触れているのが家永氏の手による三省堂版のみという点も注目される。意外かもしれないが、それ以外の教科書では触れていないのだ。もっとも、 それは次に触れるように、人数が確定的でないからかもしれない。

 あと家永氏の文章を読むと、原爆の犠牲者数がかなり大きく見積もられていることに気づく「。放射能影響研究所のQ&Aコーナーによれば、広島での原爆での死者は多めに見積もっても16万人程度とされているので、24万~25万という死亡者数は今の視点ではやや過大評価である可能性があるように思う。もっとも、これは、どこまでを原爆による死者とみるかにもよるだろうから即捏造や誇張につなげるのはふさわしくない。中国新聞が出している10代向けにかかれた平和問題記事によると、現在でも、例えば高校教科書でも版元によって12万人から20万人までばらつきがあるそうだ。広島市は14万人という見解をだしているということだこういう幅のある数字を攻撃材料として愛用する人というのはどことは言わんがよくいるし、下手にこだわったところで慢性患者の人に失礼になるだけな気がするので深くは追求しないほうがよいかもしれない。

 ただ、これは言えると思う。仮に家永氏が「広島・長崎に原爆を落とし市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っている」などという日垣氏の言うような思いに基づいて真実をねじまげた教科書を書いたのなら、こういうねじまげかたはしないのではないか。少なく見積もる方向にねじまげるか、そこまでいかないとしても少なめの見積りを採用するのではないだろうか。それは、ほかのアレコレで人数を「少なめ」「多め」に評価しようとする人が、どういう意図を込めてその声を上げているか、を思い起こせば容易に想像できる。ところが、実際には多めの数字を採用しているのだ。
 などと見ていくと、家永氏の教科書は第二次世界大戦についてアメリカを一番正義として書いていないし、むしろ日本側の被害についてなるべく心の平静さを保ちながら教えようとしたものだ、という評価のほうが近いように思える。それは、検定不合格版のほうでも検定版のほうでも特に違わない。もう少し日本の受けた被害について感情が強いものが東京書籍版で、より淡々とした記述をめざしたのが山川出版社実教出版版、というところか。逆に言えば、家永氏の「日本史」どころか、これらの中に日垣氏が言ったようなスタンスの教科書は見当たらないということである。

家永教科書の朝鮮戦争観。

 家永三郎日垣隆についての話、の続き。

 日垣氏の批判はここまで何回かのエントリでみたようにまず文体について文句を言っていたわけだが、さすがにそれで終わりというわけでもない。批判はさらに以下のようにつづく。

そうして、ひとたび氏の専門たる現代史領域に入るや、文体はまったく異質なものになる。広島・長崎に原爆を落とし市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っているらしく、朝鮮戦争では家永氏が大好きな北朝鮮ソ連と中国だけが立派で、嫌いな韓国を侵略者にしてしまう。 誤謬に満ちたイデオロギーの産物以外のものではない。

(「偽善系」文春文庫)

 家永氏の専門領域とはなんぞや、ということについては以前にも触れたので繰り返さない。私の見解が正しいともいいかねるし。で、原爆についての話は後日ふれることにして、まず朝鮮戦争についての事実誤認、という問題についてみていきたい。
 これは、いがいにまぎらわしい。なんせこの話を調べていた私も、「ああ、どうせ北朝鮮が攻め込まれたことになってるんだろ?」と早合点してしまったくらいだからだ。しかもこの文章は、藤原彰氏らによってかかれたベストセラー、「昭和史」などの中にも同様の記述があることを見せて戦後知識人に通底する間違った思考回路だと論じた、そのすこしあとに出てくるものなのだ。「あああれか」を狙った記述といったら言いすぎだろうか。
 いやまあ、実際にそういう記述になっていたら(この教科書がかかれていた当時どちらが説得力があったのかという問題は措くとして)、狙うのもそれはそれでレトリックとしてありだろう。なので、現代史についての記述が他と比べて「異質な文体」なのか、という点について見てみる上でもちょうどいいので、少し長くなるが「検定不合格昭和史」の中の関係する記述を引用してみよう。

 アメリカとソヴェト連邦とは、共同の敵を倒すために協力したが、戦争が終って戦後の処理が進められていくにつれて、両者の不一致が著しくなってきた。資本主義体制をあくまでも維持し発展させようとするアメリカと、共産主義の推進を理想とするソヴェト連邦とは、世界の重要な問題について、ことごとに鋭く対立した。一方ではアメリカ・イギリス・フランスなどの資本主義国家群と、他方ではソヴェト連邦とその衛星国の共産主義国家群とが、二つの世界として対立し、「冷たい戦争」が続けられた。  1950年(昭和25年)年6月、ついに朝鮮民主主義人民共和国大韓民国の間に戦争が始まった。この問題が国際連合安全保障理事会に上程されると、ソ連はこれは朝鮮の国内問題であって議題とはならないとして、理事会に出席しなかった。理事会は、ソ連欠席のまま会議を続け、北鮮を侵略者と宣告し、制裁を加えることを議決した。アメリカ軍を主力とする国際連合軍が韓国軍を助けるために朝鮮に出動し、次いで中華人民共和国義勇軍朝鮮民主主義人民共和国を助けて戦争に参加し、激しい国際的戦争が半島に展開された。日本は国際連合の基地として利用されたばかりでなく、朝鮮戦争に必要な軍需品製造のために、日本の工業が動員された。「日米経済協力」の名のもとに、日本の軍需工業は再び活況を呈し始めた。特需景気がとりざたされたが、これによって、日本産業のアメリカ資本への従属はいよいよ深くなった。さらにアメリカは、共産主義諸国への物資供給を妨げるため、日本の対ソ対中共貿易を厳重に制限したので、日本産業はアメリカに依存することなしにはやっていけない状態となったのである。 (「検定不合格昭和史」287~288p、太字強調は筆者)

 やや長々とした引用となって申し訳ない。さてこの記述、よく読んでみてほしい。あれこれと話題があっちこっちにとびとびしながら書いているので一見すると分かりにくいのだが、実はよく読むと「韓国の侵略」なんてことはどこにも書いていないのだ。
 現代書かれた朝鮮戦争についての文章だと、大抵北朝鮮が攻め込んできてそれに対して韓国・アメリカが戸惑う……という流れで朝鮮戦争の始まりが描かれると思う。なので、朝鮮戦争がどちらから始まったかはっきりした記載をしていないこの文章は何か違和感がある。でも、よく読めば一応アメリカ・韓国側にもソ連北朝鮮側にも肩入れしないようにしてはあるのだ。一つおかしいとすれば、「ソ連はこれは朝鮮の国内問題であって議題とはならないとして、理事会に出席しなかった」というくだりが事実誤認かつソ連に見識があるかのような口ぶりであることか(ソ連この年の1月から中国の国連での扱いを巡って理事会を欠席していたとされている。あくまでWikipedia情報だし、この当時この情報がどこまで共有されていたかは分からない)。確かに今となってみればかなり東側諸国に肩入れした文章に見えることは確かだが、とりあえず、「北朝鮮ソ連と中国だけが立派」と言えるような記述は見当たらないのだ。日垣氏の批判は当たっていないどころかデマに近い。

 当時どちらが先に攻撃をし始めたかというのがどれほど確定的だったのか?という問題は残る。よく言われるように、というか日垣氏が「昭和史」についての部分でもかいていたように、左翼系学者で韓国が北朝鮮に攻め込んだという見解をとっている人はけっこういたわけで、それは今となってはデマに踊らされた人だった、ですませることができたとしても当時としてはどうだったのか。今とは情報の量も違うし、「アメリカ側からもたらされた情報」の持つ意味合いも違うはずだ。

 とりあえず、前回見比べてみた他社の教科書での記述と見比べてみることにしよう。

 山川出版社「詳説日本史」では、朝鮮戦争については「1950(昭和25)年6月、突如両国は38度線付近で戦端をひらき、北鮮は中国人民義勇軍、南鮮はアメリカを中心とする国際連合軍の援助のもとに、一進一退の戦闘を続けた(朝鮮動乱)」と書かれている。「朝鮮戦争」でなしに「朝鮮動乱」となっているのは、当時宣戦布告のない戦闘は戦争ではなく動乱と表記するべきだ、という見解がもたれるようになったのと関係している。それはともかく、ここでもはっきりとどちらが先に攻め込んだかという記述はされていない。

 実教出版「日本史」でも、「朝鮮は戦後北緯38度線を境として南北に分けられ、北鮮はソ連、南鮮はアメリカの軍政下に置かれたが、1948年南鮮に大韓民国、北鮮に朝鮮民主主義人民共和国が成立した。しかし両国は激しく対立し、ついに1950年朝鮮動乱が起こった。」と表現の違いはあれどどちらから戦端を開いたかについてははっきりした表現を避けている。

 これらふたつの教科書から比べたら家永氏の教科書は「ディーテルがしつこい」とは言えるかもしれないが取り立ててアメリカとソ連どちらにつくかについて露骨な姿勢を示しているわけではないように見える。逆に言えばそういう書き方がこの当時のスタンダードだったとも言えるわけだが。これらを「歴史家に共通する勘違い」ととるのか、「当時はまだどちらが侵略したかを断定するには、慎重な態度をとるのが学者としての態度だった」ととるか、は私には何とも言えないのでこれ以上はコメントを控えることにする。

 次に、「現代史に入った途端に急に異質になる文体」なるものについて考えてみたい。文体論はしょせん主観の問題になってしまうのであまり言っても詮ないのかもしれないが、いかんせん日垣氏の批判がそれなのでどうしようもない。 
 先ほどの「検定不合格昭和史」の朝鮮戦争についての記述は、確かに後半の日本にもたらした影響について論じる部分はいくらか煽動的な文体を感じさせる。また、山川出版社版や実教出版版の教科書に比べると、戦争の経緯についても激情的な言い方といえば激情的な言い方である。しかし、「異質」というほどかというと? どうなのだろう。
 ついでに、無味乾燥だと断じられた井原西鶴についての部分が文化史に関わる項目なので、戦後史のうち文化史に関する部分の記述についてはどれくらい異質かどうか、見るために取り上げてみよう。

活動に不便な和服は戦争の末期から影をひそめ、戦後は男女ともに洋服の生活が圧倒的に優勢となった。農村の婦人たちの間にも洋服が普及していった。嫁入り道具としてなくてはならないと考えられてきた針箱が、だんだんミシンに変わっていく傾向が現れてきた。 (「検定不合格昭和史」284p)

 ……どうだろう。文体としてそこまで異質だろうか。
 これはさっきの朝鮮戦争の部分もそうなのだが、語句の羅列があまり目立たず、そのぶん記述的な文章になっているところが目につくのは確かだ。だから、そのせいで「無味乾燥」とやらな文体はある程度緩和されて、その分異質になったといえばいえる。
 ただ、これはイデオロギーと関係あるのかどうかという問題がある。1956年にかかれた教科書ということは「現代史」は10年そこそこの話しかないのだ。日本史の知識として詰め込まなくてはならない事項というもの自体があまりない。当時の入試事情など知らないけれど、入試でもあまり問われることはなかっただろう。現代史、特に同時代なら見解が安定しない論点が多すぎて入試問題に問うのは題意によっては思想調査になりかねない、という問題もあるかもしれない。だから、「覚えるべき、学ぶべきこと」がわりと少ない分、余裕のある記述をすることができた。事情はイデオロギーではなく、むしろそんなところにあるのではないだろうか。

 

違いのわかる歴史教科書。

 日垣氏は家永氏の「検定不合格日本史」の記述を評して「無味乾燥な記述」としている、と評価している話について先日触れた。

 無味乾燥というけれど、教科書なんてまああんなもんだろ、という感想だったのだが、さすがにそれだけではどうかと思うので、同時期の教科書と比べたらどうなのか、比較してみることにした。

 「検定不合格日本史」の検定のころに対応する教科書はさすがにかなり古いために目にすることができなかったのだが、それに近い時期のものは調べることができたので、見比べてみることにしようと思う。なお「検定不合格日本史」は高校社会科の日本史のために書かれた教科書なのだが、当時は今で言う日本史AとBの区別がなかったので、これらの教科書は現在でいうところの「日本史B」にだいたい相当するものである。つまり原始時代からずっと歴史をたどっていき現代史に至る、いわゆる歴史教科書というと一番一般的にイメージされやすいあれである。

「検定不合格日本史」の場合

 さて、まず家永氏の文章から見ていくことにしよう。 日垣氏が引用している部分を「検定不合格日本史」から引用してみる。

 江戸時代の文芸の中で最も著しいのは小説の発達である。室町時代お伽草子がだんだん進歩し、元禄の前後に浮世草子と呼ばれる、現代世相を主題とする小説が流行した。井原西鶴がその第一人者で、鋭い観察力をもって現実を見つめ、町人の享楽生活や、利を求めるに敏な才覚、苦しいやりくりの生活などを軽妙な筆で巧みに写している。「好色一代女」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などがその代表作である。

家永三郎「検定不合格日本史」p142~143)

 前回の話に補足すると、日垣氏の引用は意図的に固有名詞を羅列した所だけを抜き出して「無味乾燥な記述」としているふしがあるようにも思える。前後もあわせて抜き出せば、その印象は薄れる。まぁそれは個人の見方なのかもしれないが、とりあえず、前後も含めて少し長めに抜き出してみた。

 さて、この記述、どうだろうか。教科書的というか(教科書だけど)辞書的というか、ふんふん、そうなのね、という感じである。確かに無味乾燥といえばそうなのかもしれないが、無難で叩くところがない(なのになぜか日垣氏には叩かれている)とも言える。

実教出版「日本史」の場合

 次に、他の会社から出ている日本史教科書での同じ時期と内容についての記述を見てみよう。つまり元禄文化における小説についての記述である。
 まずは実教出版から1963年に出版されている「日本史」での記述。

文芸のうちでもっとも著しいのは小説の発達であった。江戸時代初期の庶民的な仮名草子についで、このころには世相を主題とする浮世草子が流行した。その中心作家は、大坂の商人井原西鶴で、町人の営利や享楽の生活を写実的に描きだし、「好色一代男」など、かずかずのすぐれた作品をのこした。1)

1) そのほか、「世間胸算用」「日本永代蔵」「好色五代女」などが名高い。

時野谷勝他「日本史」実教出版,1963, p143)

  「1)」以降の部分は注釈で、実際には枠外にかかれている。

 とりあえず言えることは、「検定不合格~」とさしてちがわない、というか言い方を変えればかなり記述が重複しているということである。確かに羅列する固有名詞を減らすために一部が欄外に移されているなどの違いがあるが、それは裏を返せば勉強の時見落としやすいということでもあるのでメリットのように見えてデメリットかもしれない。どっちがいいかは意見の分かれるところだろうが、ともあれ、これと比較して特に家永氏の文章がとりわけ無味乾燥というようには見えない。

山川出版社「詳説 日本史」の場合

 次に、山川出版社「詳説 日本史」の1959年版のものをみてみることにする。当時のことは分からないが、現在では受験用に使いやすい教科書として名高く、最大のシェアを占めている教科書である。

文芸では、17世紀はまだ京都・大坂を中心とした上方文学の隆盛期で、ことに松尾芭蕉井原西鶴近松門左衛門はその代表的な人物であった。室町時代連歌から出た俳諧は、(中略、俳諧について)西鶴芭蕉と同じ時代の人であるが、すぐれた小説を書いた。室町時代御伽草子の流れをうけた江戸初期の仮名草子は、教訓や道徳を主としたもので、真の小説とはいえなかったが、西鶴は現実生活をえがき、人間の本能や欲望をありのままに記述した。これが浮世草子(浮世草紙)とよばれる小説のはじめとなった。作品としては「好色一代男」などの好色物、「武道伝来記」のような武家物、「世間胸算用」「日本永代蔵」のような町人物などがある。 (宝月圭吾他「詳説 日本史」山川出版社,1959, p206~207)

 当時も受験生の御用達だったのだろうか、記述の分量は他の2冊に比べてもかなり多い。文字数が多い分、記述的な表現が増えているので、一読して流れを追いやすいかたちの文体になっている。しかし、出典のページ番号が他の2社に比べるとずいぶんと大きな番号になっていることからも伺えるように、その分テキスト全体の分量も多くなっている。どっちがいいかは使い方の問題だろう。

検定で何が変わった?(検定合格版三省堂「新日本史」の場合)


 参考までに、家永氏の手による教科書(三省堂「新日本史」)の文部省の修正をうけて出版されているバージョンのほうのもみてみよう。ただし、「検定不合格日本史」より少しあとの時代のもので、1966年のものとなっている。

 江戸時代の文芸の中で最も著しいのは小説の発達であって、元禄の前後には、浮世草子と呼ばれる、現代世相を主題とする小説が流行した。大坂の町人井原西鶴は、鋭い観察力をもって現実を見つめ、町人の享楽生活あるいは利を求めるに敏な才覚や、苦しいやりくりの生活などを軽妙な筆で写した傑作を多く残している。「好色一代男」「好色一代女」などの好色物、「日本永代蔵」「世間胸算用」などの町人物が代表作とされている。

家永三郎「新日本史」三省堂,1966 p139)

 日垣氏の主張を受け入れるなら、教科書検定仕事しろと言わざるをえないくらいあまり変化がない。「無味乾燥な記述」というのはほとんど変わってないんじゃないか? いくつかの表現が手直しされている以外はお伽草子との関連が削除されて、代表作が少し増えてジャンル分けが細分化された程度である。また、このあとに「検定不合格~」では特にふれられていなかったその後の浮世草子事情についての記述が少し小さいフォントで挟み込まれている。そんなくらいだ。

 見比べて思うことは、やっぱり教科書に書かなきゃならないことは誰が書こうが違いがないのではないか?ということである。あるいは日垣氏が例にあげたような部分は特に違いの出る部分ではなかった、というべきか。はっきりいうと、教科書検定についてうんぬんするのに無味乾燥な記述をやりだまにあげること自体、筋違いということなんであろう。共通して見える問題として提起できなくもないが(個人的には「読み物じゃないので、どうでもよい」と思う)、家永氏の教科書を名指しして「失敗作」とする根拠にはならないと思うのだが、どうだろう。

 なお途中から日垣氏あんまり関係なくなってしまいましたが、まあ私が教科書読み比べてみたかったというのもありますごめんなさい。

「つまらない」とはどういうことか。

  前回の、日垣氏と家永氏についての話のつづき。

 結局、日垣氏はどのようなことをもって「検定不合格日本史」が失敗作だという断をくだしているのだろうか。

 実はこれが、よくわからない。言っている意味がわからないとかそういう意味ではなく、どうしてそれでそこまで強く否定的な態度に出られるのかがわからない。

 たとえば、日垣氏は「検定不合格日本史」をひきながら、こう続ける。

 

井原西鶴がその第一人者で、鋭い観察力をもって現実を見つめ、町人の享楽生活や、利を求めるに敏な才覚、苦しいやりくりの生活などを軽妙な筆で巧みに写している。「好色一代女」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などがその代表作である。》  本当に氏は西鶴を読んでいるのか? あのエロ小説を。まさか「西鶴の才覚」などと、冗談をいいたかっただけではあるまい。ともかくこのように家永本には無味乾燥な記述が延々と続き、これでもかこれでもかと高校生にひたすらの記述暗記を強いるひどく退屈な教科書である。 (「偽善系」)

  引用されている文章が「無味乾燥な記述」かといえばまぁ、そう、そうねぇ…… でもそれは失敗作である傍証のいの一番としてあげることなのだろうか。

 無味乾燥というけれど、私たちが中学や高校で読んだ教科書ってどんなもんかなあと思い返すとこんなもんである。だいたい教科書というのは普通の本みたいに読むものじゃないしマル暗記するものでもなく、先生の説明を聞きながら内容を理解できるようにするものなのだから、要点をチェックできるようにある程度こうやって必要な情報をつめこんだ形式のほうがいいようにも思うのだが、このあたりは見解の相違もあるのだろうか。実際、そういう教科書を目指している版元もあるようなので、教科書のそういう文章自体が一般的に問題だという見方もあるのかもしれない。でも、迷著の理由の一つとして持ってくるほどのこと?

 ここは私以外にもどうかと思っていた人はおられるようだ。

まず、この教科書の抜粋部分。これって僕らが読まされてきた歴史の教科書からして著しく劣るものでしょうか?検定不合格になっても当然のものでしょうか? そもそもあの長大で情報量の多い日本史を、わずか一冊にまとめようというのがしんどい話で、文部省の指導要領に沿って必要事項をブチこんでいけば、誰が書 いても羅列的なものになるでしょうし、現になってます。「ひたすらの記述暗記を強いる」というけど、そうでない検定合格教科書があったら示して欲しい。対比して説明して欲しいです。ところで「記述暗記」ってなんですか?「暗記を強いる」なら分かるけど、「記述暗記を強いる」ってどういう内容なんだろう。記 述を強いるの?なにそれ?それに「強いる」のは教室にいる教師や試験問題であって、教科書ではない。

ESSAY 174/a them and us mentality /「あいつら」症候群シドニー多元生活文化研究会)

 確かにそうである。そして、そうでない検定教科書が成立しうるのか?というのも確かに問題となる。というわけで次回のエントリで比べてみます。

 

 それはそうと、さらに日垣氏は家永氏は西鶴をほんとうに読んでいるのか?と論難している。正直なところ、なんでいきなりそう話が進んだのかの論理構造はよく分からない。読んでいようといなかろうと、無味乾燥な記述をするときは無味乾燥な記述をするだろう。そこは別問題だ。読んでいたら、思い入れたっぷりに記述しなくてはいけない、ということなのだろうか。それこそ教科書として問題でないのか。

 そりゃあ、日本史といっても長いから、全然関係ない時代や分野についてとんちんかんなことを書いている人がいたら、「本当に知ってるの?」とききたくなる、というのは分かる。でも無味乾燥な記述だからって、そこ論難する?

 家永氏はどちらかというと「太平洋戦争」とか「戦争責任」といった、第二次世界大戦をあつかった本の書き手、というイメージがつよい。これは家永氏を知ったあとの私でも確かにそうだ。でも岩波新書に「日本文化史」というロングセラーを上梓していることからも伺えるように、元々は文化史の人である。であるのなら西鶴などはどちらかというと得意分野のほうではないのか。確かに、家永氏はのちに日本近代史に関して大きくコミットするようになっていくけれど、これはまた別の話である。「検定不合格日本史」の原稿が書かれた1956年当時は文化史の専門家といったほうがふさわしいのではないか。で、文化史を専門とする歴史学者にいきなり「本当に西鶴を読んでいるのか」と難詰する動機はいかに。まして、トンデモなことを書いているのならまだしも、「無味乾燥」程度で、である。

 そういえば先ほどのサイトでもふれられているけど、そもそも井原西鶴はエロ小説のひとことで片付けていいんでしょうか。じゃあ源氏物語はロリペド小説で古事記は近親相姦ものってことになるんでしょうか。ここも論理の飛躍が気になるところである。

 というか、論理の飛躍もそうだが、ここで日垣氏が何をどう批判したいのかいまいち明らかでない。エロ小説だったら読んでちゃいけないんでしょうか。それとも評価しちゃいけないんでしょうか。いまいち何を言いたいのかが明らかでない。まさか思いついた冗談をはさみこみたかっただけではあるまい。ちなみに才覚を評価されているのは西鶴じゃなく町人である。

 なお、上でも少し書名をあげたけれど、家永氏は「日本文化史」という本を岩波新書から上梓している。1959年発行なので、ちょうど「検定不合格日本史」の元原稿が書かれたころの少しあとだ。

 

日本文化史 (1959年) (岩波新書)

日本文化史 (1959年) (岩波新書)

 

  家永氏はこの本のなかでも井原西鶴を論じている。そこでは、上の引用と大体似たようなことを述べつつ、性の開放という観点からも肯定的な評価をしている。現在新刊で入手可能な第2版は1982年に改版されたものだが、旧版と比較してみた限りでもこの部分についての評価は基本的に変わっていないようだ。
 それに、家永氏は井原西鶴を手放しで賞賛しているというわけではない。上のような評価をしながらも、一方で退廃的に過ぎたという批判も付け加えており、ちゃんと家永氏は井原西鶴を「エロ小説」という切り口でも評価していたんじゃないかと思われる。教科書ではそんなこと書いたらそれこそ検定に通らないから言及を控えただけだろう。二次元エロとなるとなんでもかんでも無批判に持ち上げてもらえないと不満がる現代の一部の趣味人などとは家永氏は一味違っていたようだ。あくまで「一部」と強調しておきたいが。話がそれた。

 確かに戦前の人でしかもマジメな歴史学者というと、そっち方面にはオカタイのかなあなどと思ってしまうけれど、それは思い込みということなのだろう。家永氏の意見では、日本の古来の伝統では性はもっと開放的であり、儒教が入ってきたことによってそれが抑圧されたのだというという考え方だったようだ。この考え方が実際の文化論としてどれくらい妥当なのか、という点については私にはなんともいえないが、とりあえず「エロ小説」という言い回しを悪口のようにして扱う日垣氏の方が、ちょっと我が身を振り返ってみた方がよいのではないか。

 しかしそもそも論でいうなら、井原西鶴を読んだことのない人が教科書の井原西鶴についての記述を書いて何が悪いんだろうか?というところにある。もちろん、井原西鶴論をやる人なら読んでなくては話にならない。江戸文学史元禄文化の専門家なども、きっと読んでいた方が望ましいんだろう。ででも、ここでは井原西鶴元禄文化のなかの有名どころとして出てくるだけだ。通史や分野を総覧するための本なら、そもそも全部に通じていないのが当たり前、でないだろうか。

 じゃあどうするのかって?もちろん先人の肩の上に立つに決まっているじゃないか。

 悪い言い方をするなら紋切り型ということになるんだけど、オーソドックスなテキストなんて紋切り型でいい、むしろ紋切り型「が」いいじゃないかとも言える。

 だいたい、日垣氏の物言いにならうなら、教科書に登場する文学は古事記から竹取物語平家物語近代文学の数々にいたるまで読んでなきゃならんし、もちろん文学以外についても同様、ということになるのだが、そんなもん一人で書いてないで、複数人で書いたって何百人必要なんですか?ということになる。どうも無理なことを要求しているだけに見える。

 もちろん、歴史教科書の書かれ方に問題がある、紋切り型な書き方の根底にこそ問題がある、という問題意識はあっていい。それはそれとして、さて日垣氏の「井原西鶴についての記述について家永氏を論難する内容」が、そういうものとして望ましいのか。もっと言えば、「迷著」扱いする根拠として足るのか。

 私には言いがかり以外の何かだった形跡が見出せないわけだが、どうだろう。

 

 

リメンバー・イエナガ?

  日垣隆「さらば二十世紀の迷著たち」の中では、家永三郎氏の著書一冊と一本が俎上に上がっている。ここで取り上げられている著書とは「検定不合格日本史」で、論文のほうは終戦直後に書かれた論文なのだけどここでは「検定不合格日本史」に話をしぼる。

 

検定不合格日本史 (1974年)

検定不合格日本史 (1974年)

 

 日垣氏はこの本、というか教科書を「明らかな失敗作」だった、と断じて、あれこれと批判を加えた後でこんな一文で批判を締めている。

 あなたは時流におもねるただの野心家であり、歴史学官僚のホープたる自分の主張に後輩の文部官僚が敬意を表せず突っ返してきたことが許せなかっただけだ。教科書裁判の支援者たちが、氏を反権力者と思い込んだのは、ただの勘違いであろう。彼はただ権力者になりたかっただけなのである。 (「偽善系」)

 具体的な批判内容についての検証はあとまわしにして、とりあえずこのくだり、非常にミスリーディングな書き方になっているのが気になるというところからはじめることにする。

まず本題に入る前に、日本の思想史的な背景についてあらかじめ触れておく必要があると思う。前回のエントリに出てきた本のタイトルなどからある程度推し量ることもできるかもしれないが、かなり昔の話だからだ。


 ここでやり玉にあげられている家永三郎氏は、検定による教科書の記述に対する介入をめぐって国を相手取って起こした「教科書裁判」で知られる人である。

 東京教育大学、のちに中央大学教授(出訴当時)であった家永三郎が、自著の高等学校日本史教科書『新日本史』の検定不合格処分や条件付き合格処分を不服と して、教科書検定制度は憲法の保障する表現の自由、検閲の禁止、学問の自由などに反すると主張し、国などを相手どって提訴し30余年にわたって行われた裁判。

 

家永教科書裁判日本大百科全書「教科書裁判」の項目より、コトバンク経由)

家永三郎氏の声明

 

 私はここ一〇年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三八・九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるためにあえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。憲法教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としてもだまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます。

  昭和四〇年六月十二日
家永三郎

 

家永三郎教授の教科書訴訟東京教育大学新聞会OBのページ)より

  この裁判は、1960年代のなかばに最初の訴えを起こされたものだが、その後90年代のおわりまで結論が持ち越された非常に長びいた裁判である。

 提訴から32年にわたる家永教科書裁判は、国民各層に教科書制度を含め広く教育政策への関心を喚起するとともに、教育権理論を深化させる役割を果たした。また数次にわたって教科書検定規則および検定基準の改訂が行われたことは、同裁判の成果と評される。

家永教科書裁判日本大百科全書「教科書裁判」の項目より、コトバンク経由)

 

  前回話題に挙がった「家永日本史の検定」も、そんな流れのなかで出版されたものだ。

 

 このことを日垣氏は「さらばー」の文章の中で触れていない。なので、なんでいきなり家永氏が唐突に「野心家」よばわりされなければならないのか、事情を知らない人にはさっぱり分からない。まあそのあとを読めばなんかの裁判の関係者なんだなということはおぼろげに分かるが。
 まあこういう「さらばー」の構成的な問題については前回も触れたけれど、一部には分量の問題もあろう。また、この文章は2000年にかかれたものだから、当時の一定年齢以上の「読書家」にとっては教科書裁判というのは特に説明なしに持ち出して良かったのかもしれない。当時読んだ私にはよく分からなかったが(少しあとで話題になった、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書をめぐるニュースでようやくそういうことが過去にあったと知る)。

 ただ、ここで一つねじれているのは、この文章は本来、教科書裁判とは直接は関係がない、ということだ。
 教科書裁判の原告が書いた「検定で不合格になった教科書」をやり玉にあげているのにどういうこっちゃと思うかもしれないが、こういうことだ。
 日垣氏がはっきりと断じていないのでわかりにくいが、日垣氏の書き方だと「検定不合格日本史」が教科書裁判で不合格や修正の対象になった教科書であったかのように読めてしまう。
 しかし、この不合格になった教科書は教科書裁判の遠因ではあるかもしれないけれど直接は関係ない。なにしろ、この日本史教科書は1956年の検定で不合格になったものだからだ。いっぽう、教科書裁判は1960年代後半に始まっている。時期的に逆だ。
 「つくる会」の教科書などは学校向けのものが作られてほぼ同時に「市販版」が店頭に並んでいたから、そのセンでみていくと勘違いしてしまう。この本は、教科書裁判が始まってから、もともとは高校生向けに編まれた教科書を一般向けに復刻したものである。冒頭に付け加えられた序文のなかでも、検定のありかたについて論ずる上での資料として改めてひっぱりだしてきたものだということが述べられている。
 もっとも、この序文によれば他にも「一般向けに日本史の通史を」みたいな意図もあったとのことなので、それだけではないだろうけれど。
 つまり、ここで日垣氏がどれだけ「検定不合格日本史」の内容について熱弁をふるおうと、教科書裁判を批判したことにはならない(あるいは、教科書への検定による介入内容を正当化することにはならない)はずなのである。ならないはずなのだが、なぜか日垣氏は平然と教科書裁判についての批判をはじめてしまう。「検定不合格日本史」が出たのはさきほどの事情があって74年なので、年号だけみたら事情を知っていても勘違いしやすい。ミスリーティングな記述だと思う。

 

 それにしても、さっきも書いたけど、この本を始めて読んだときの私には唐突に持ち出された「家永三郎」という人自体に「それ誰だ」だったのであった。まあ、この次の年に家永氏が亡くなられたときに、某ちょう有名な歌手がブログでその名前を出していたという話を聞いたときには、自分の知識不足を思い知らされたわけだが。
 しかし日垣氏は「偽善系」に収録している「クソ本を読む」という書評群のなかで、こういう知識のスコープを無視している本の書評をとりあげてオタッキーな書評だと批判していたはずだ。オタクという言い回しを無条件に蔑視語として持ち出してしまえる感覚はさておくとしても(2000年だしな)、しかし、その基準ではかったとき、「さらばー」はまぎれもなく「オタッキーな書評」ではないのか。
 個人的には前提条件を持ちすぎれば「ガルパンはいいぞ」的な内輪だけを向いたものになるし、あれもこれも説明し過ぎると本題に入るのが長すぎるか、情報商材的文章にありがちなくどくどしたものになるし、なのでようはバランスだとは思うのだが。

迷著の小ネタ。

4回に渡って「さらばー」について見てきた。今回はその他いくつか小ネタを拾い上げ的に見ていきたい。

稲垣本・日垣本での類似?かもしれないもの

 まず、稲垣氏の著書との重複について。

 前々回のエントリで挙げたのは、引用箇所じたいが重複していたものである。そうでないものまで含めてしまうと、さすがにただのネタかぶりだろうとなってしまうと思うからだ。

 なので以下は、あくまで「題材が同じ」という指摘にとどまる。

 まず、「さらばー」の第4節で、歴史学者でもあり教科書裁判の原告でもある家永三郎が終戦直後はどちらかというと右寄りだったのがのちに左転回した、ということについて触れている。これは、稲垣本でも教科書裁判を扱った章のなかでエピソードとして紹介されている。日垣氏と家永氏の間をめぐっては、別に扱いたいネタもあるので今度もう少し詳しく扱う予定である。

 また、日垣氏は法学者の平野義太郎について、戦前と戦後の言動が大きく異なっているという話を取り上げている。

 正直なところ、家永氏は「戦後になってもまだ」だから批判的に論じる価値があるかもしれないが、戦前となると「それはしょうがなかったんじゃないの?」という違和感が出てきてしまうのだがどうなんだろう…… それはいいとしても、ともあれこの平野氏は「悪魔ー」では登場しない。巻末の索引にも名前はない。

 しかし、これは「悪魔祓いの戦後史」書籍版では省略されているのだが、元々の連載の中では第1回(「諸君!」1992年7月号, p149)の冒頭の緒言で登場する。やはり、戦争中には国粋的なことを言っていた学者の例として取り上げられているのである。ただ、名前が出てくるのみで具体的な発言について引用しているのは日垣氏のほうだけである。

本当は事実上終わっていた帰国事業

 小田実氏の「私と朝鮮」を紹介したくだりで、日垣氏は小田氏のことを文中で「帰国事業で北朝鮮へと送り返した」張本人と批判している。

 しかし、「私と朝鮮」が出たのは1977年である。いちおう帰国事業自体は1984年まで続いたとはいえ、この時期には帰国事業はほとんど終わっている。帰国事業で大量に北朝鮮へ帰還したのは1960年代のことで、この時期にはすでに北朝鮮は実は地上の楽園でもなんでもなさそうだということが国内の朝鮮人の人にも広まっていたためにもう手を挙げる人も減っていたようなのだ。というか、だからこそ小田氏のような有名人にスポークスマンとして語って(騙って?)もらう必要があったのではないか。

 現在では北朝鮮に批判的な立場に立っている佐藤勝己氏も初期は帰国事業にも携わっていたんだそうで、その佐藤氏の回想によると最初の2年間で8割が帰国し終わった、という。また、前述の稲垣武氏「悪魔ー」でも、帰国事業を通じて北朝鮮へ戻った人の数は「62年には前年の6.5分の1の13497人に激減、73年には704人、80年には40人、83年にはゼロ」としている。

 まぁ小田実氏の影響がまったくないと断言は出来ない。最後ごろに帰国した人は小田氏のルポを真に受けて帰国を決めた人もいたのかもしれない。でも、日垣氏のやるように、「犯罪的な事実」だとしてまっさきに指弾するのにふさわしい人なのか。

 それこそ同時にやり玉にあげている寺尾五郎などは50年代に北朝鮮についてほめたたえたルポを書き帰還事業を煽りたてたのだから批判に値するかもしれない。「悪魔ー」に登場するエピソードによれば、寺尾氏は帰国事業が始まった後で北朝鮮を訪れたとき、「全然違うじゃないかどうしてくれる」と帰国した青年に問いただされたということもあったそうだし。

 なのに日垣氏の筆は、そこでは「ところで、寺尾五郎って誰だ。」ととぼけるだけにすぎないのだ。なにかバランスがヘンだ。

それは本当に著者のせいですか

 「買ってはいけない」で名をあげた(とりあえず私の中ではそういうイメージが一番強い)人の文章らしく、「さらばー」には環境ホルモンをはじめとした化学物質や新たに名づけられて騒がれるようになった病気、およびそれによる人体への影響を大げさに煽るような本も取り上げている。これらの本が登場する節は「さらば二十世紀の迷著たち」の最後の節なので、そういった本をひととおり批判(中にはほとんどタイトルとごく短い説明しかされていない本も少なくない)したあとで、文章をこう締めている。

世界中が今世紀ずっと寿命が延び続けた事実を、これらはどう説明するのだろう。 江戸時代の切り捨てご免のキレた侍を、これらの本はどう解釈してくれるのだろう。 私の疑問は、きょうもまた広がっていく。

 この文章が書かれた2000年当時、エイズの流行で寿命が縮んでいる地域が南アフリカを中心に発生していたし、ロシアでは二十世紀末に平均寿命が低下したと思うがそれは本題ではないのでおいておこう。結局「世界中」ってどういう意味?という言葉遣い的なところに帰結しちゃいそうだし。

 で、これをあえて取り上げるのは、この文章はかつて私が読んで拍手喝采した記述だからである。いや実際に手は叩かなかったけど。でも、この手の環境保護や文明病のようなものを取り上げて人類の未来はマックラだ!とするアジり、あんまり好きじゃないので、そうそう、そうなんだよ!と感心したは確か。そもそも「買ってはいけない」批判が、日垣氏という人の文章に好意的に接するようになったきっかけであったんだし。

 でも、今思うと「それっていいがかりじゃないか」という話である。

 環境ホルモンとかあれこれが、実際に子供をキレさせるのかどうかはここではおいておく。でも仮にそうだとしても、江戸時代の侍が切り捨てご免したこととつながりはない。そんなものは多分別の理由があるんだろう、で終わりである。子供がグレたとか。ひいきの歌舞伎役者に恋人が発覚したとか。まあそれは冗談として、こういうものは因果関係はそうそう一意的には決まらないものである。発癌物質がなくたってガンになる人はいるのだ。そんなに気になるなら、それはそれであなたが解釈したらいいじゃないという話になる。

 「寿命が延びつづけた事実」だって、例えば日本では概ね当てはまると思う。でも、それと公害問題にはあまり関係がない。イタイイタイ病水俣病も、日本の平均寿命を縮める働きはしていないけれど、だからどうなのという話だ。それとも、寿命が延びつづけているのだから水俣病イタイイタイ病もどうということはないということなのか。自殺者が何万人出ても、平均寿命に影響はないかもしれない。だからブラック企業も不景気も放っておきましょう。そんなことになるのだろうか。それはさすがにないだろう。

 疑問がひろがっているのは、勘違いのせいじゃないのかしら。