正義の見られ方。

  「買ってはいけない」論争をそろそろ取り上げないといけないかなあ、と思って資料をあたったりしているうちに結構経ってしまった。

 「買ってはいけない」論争は、いちおう日垣隆氏を知るきっかけになった話題である。もう少しいえば、俺が日垣氏を「買う」ことになった黒歴史のはじまりになったきっかけでもある。

 なので、ここについては、それなりに説得力のあることをやっているだろう、というのが一応自分の考えなのである。

 今文庫本「それは違う!」に収録されている「買ってはいけない」批判を読んでみても、そこまで見解として食い違っているところがあるわけではない。だいたいは、うんそうだなあと頷けるところが多い。

 ただ、では、当時の日垣氏が、そこまですぐれた批判の書き手だったのか。あるいは、「買ってはいけない」を向こうに回して批判をうまくやってみせる人だったのか。となると、これは別問題となってくる。

 今、当時のいろんな文献を当たってみると、当時から日垣氏がクリティックとしてそこまで高評価を得ていなかった形跡もそこここに見られる。

民俗学者大月隆寛氏の場合。

 たとえば、当時「「買ってはいけない」は買ってはいけない」というタイトルで買ってはいけないを真っ向から批判したブックレットには何人かの文化人的な人がコラムを寄せているのだが、その中の一人の大月隆寛氏が基本的には「買ってはいけない」がインチキ本であるというラインは保ちつつも、それに批判を加えた日垣氏には意外に高い評価をしていない。

日垣隆などは力戦敢闘、このガイキチ連中とよくわたりあっているけれども、でも、それだけじゃ勝てません。判定にもち込むことはできても、奴らそのものを笑いものにはできない。どう見たってこの本の著者三人とも、眼つきがイッちゃってるじゃないですか。

 要するに言ってること正しいけどそれだけだよ、というような話で、だからどうしたという感はある。正しいならそれはそれで価値だと思うし。というか、それならこんなブログやってる俺は何なのだ。「正義には別の正義を、では勝てないんです」(だから側面から笑い飛ばさないとダメ)なんて主張も、なんだか今となっては色あせた論の張り方である。まあナチュラルボーン冷笑系の大月氏ことキングビスケット氏のそこを衝いても仕方ないのかもしれない。ちなみにこの本の著者は三人ではなく、四人である。巻末の座談会で顔出ししているのは三人で、もう一人の山中登志子氏は編集部員で司会者として出席しているせいか、顔が出ていないので眼つきを云々できないのは確かですけど。

 ついでに言うなら、この座談会で使われている著者の内三人の写真、別に目がイッてる表情ではないんだよなあ。むろん、発言や主張にはかなりの疑問があるメンツではあるが、そういうおかしさが写真から読み取れるような表情をしているかというと、そんなことはない。というか、週刊金曜日だってメディアの一つなんだから、そんなふざけた写真を使うほど愚かではないと思うし。ちょっと酷い印象操作ではないか。トンデモ本だからって何言ってもいいわけじゃなかろう。

一水会代表、鈴木邦男氏の場合。

 もう少しほかのところに目を移してみると、同書に同じくコラムを寄せている一水会代表の鈴木邦男氏がもう少しはっきり日垣氏批判を繰り広げている。

 鈴木氏は、「買ってはいけない」が控えめに警告したところで売れないからセンセーショナルに振舞った、ハッタリ本であるということを指摘した上で、こう切り替えしている。

だから、「偉い、偉い。問題提起としては実に貴重だ」と言っていればいいんだ。ところが、このヒステリックな本に対し、同じ次元でヒステリックに対応したのが日垣隆だ。だから、'60年代激突風になったし、マンガ的なケンカになったのだ。「まあ、真実はこの中間にあるのだろうな」と賢い読者は思っているのではないだろうか。
(同書、p163)

  マンガ的なケンカというのは、「サンデー毎日」に当時掲載された日垣氏と「買ってはいけない」執筆陣による対談のことだ。これについては最近原典を入手したので今度紹介したいのだが、評価については鈴木氏にかなり近い。というか、たぶん日垣氏を売り出すきっかけになったきっかけであろうこの「最高の功績」についてもう少し見直さなければならないかもしれないなと思ったのが実はこれであって。問題提起としては間違いが多すぎる、という意味で鈴木氏には全面同意はできないところもあるのだが、かなり共感を持てる評価である、今となっては。

 鈴木氏は、このもう少し前、というかコラムの書き出し部分でこう書いている。

久しぶりに不愉快な本を読んだ。そして、久しぶりに不愉快な論争を見た。何だ、こいつらは、と思った。

 (同書、p163)

 不愉快な本とは「買ってはいけない」であり、不愉快な論争とは「サンデー毎日」の対談である。そして、「今時、こんなレッテルの貼り合いの「ガキのケンカ」があったのかと驚いた。少しでも相手の言い分を認めたら自分たちは全否定されると怯え、相手を100%悪者にしようと口を極めて罵る。これでは30年前の「左右激突ではないか」」とまで言う。

 鈴木氏にまぜっかえすとするならば、「今時」と言ってしまうこんなスタイルは残念ながら、それから20年ほどたったインターネットでは日常茶飯事に見られる、ということだ。それはともかく、「買ってはいけない」の批判は同書でいろんな人にされているので「買ってはいけない」がヒドイというのは理解できるとして、それに対する日垣氏についての評価も相当だ。

 鈴木氏の日垣氏の「サンデー毎日」での語り口について、さらに踏み込んでこう評価している。

「いけない」派に劣らず、あるいはそれ以上に「インチキだ」派の日垣は感情的で教条的なんだ。食品などの危険性も認識しているのだから、共通の土俵はあるはずなのに、「激突討論」になると、「あなたはファシズムだ」「煽動ジャーナリズムだ」「ほとんど『資本論』の世界だ」……と罵倒する。そしてこれは企業に対する「言論テロ」だとまで言う。おいおい、、と思ってしまう。こんな奴に守ってもらうんじゃ企業の方も迷惑だろう。

(同書、p164)

 日垣氏の批判の中では、山崎製パンのパンはほかに比べて添加物が多いからなるべく買わないとか、キッチンハイターやカビキラーも買わないというような見解も示しており、このあたりが「あなたがた歩み寄れるところあるんじゃないの?」という評価につながっているわけだ。なのにただぶつかり合うためだけの積極的な話のない、不毛な論争ではないか、とこういうところが鈴木氏の見解のようである。

 これを初めて読んだときは、左右対立なんて意識していなかったし、「買ってはいけない」に不快感を持っていたから、ほかのコラムの書き手や本文に比べてあまり身をいれて目を通さなかった記憶がある。今読み返せばほかの書き手も左右対立、というか「買ってはいけない」と左派イデオロギーの関係についてはかなり意識して書かれていることがわかるのだが、当時はあんまり気にしなかったのだ。ソルビン酸がどうとか、赤色2号がどうとか、そういうところだけに注目して読んでいたのである。そういう「理系少年」であった。

 さて、鈴木氏にここまで言わせた「サンデー毎日」の対談については、リスク論の専門家である安井至氏もかなりビミョーな評価をしている。とはいえ、これはかなり判断が難しく、日垣氏を批判したといいにくいところもあるのだが、ともあれ紹介する。

 環境学者、安井至氏の場合

 安井氏は「市民のための環境学ガイド」というページを主宰しており、その時々の環境問題にまつわるさまざまな話題を論評している。スタイルとしては昔の「個人ホームページ」時代の日記風で、こういうスタイルのサイトってやっぱり安心するなあとか思ってしまう。

 そんなことはどうでもいいのだが、このサイトで安井氏は3回、「買ってはいけない」騒動についてとりあげている。さすがに99年というとだいぶ前なので、「市民のための環境学ガイド書庫」というページにおさめられている。

 まず一回目の登場は「週刊金曜日「買ってはいけない」評 07.24.99」という回で、タイトルからわかるように「買ってはいけない」そのものについての論評である。

 安井氏も「買ってはいけない」を問題提起としては一定の評価をしつつ、いろいろな問題点を指摘している。個人的には、「ある種の商品評論家がターゲットにしているものばかりが目立つ」「もはや古い問題とでも言うべき対象ばかり」という指摘が興味深い。

 この回では、日垣氏の名前は本文中には登場しない。しないのだが、この文章には追記がある。当初の評価が高すぎる、というかよろしくない、という判断によるようだ。今回の話でのポイントは実はここなのだが、追記をした理由を示している部分でもあるのでそういう意味でも注目するポイントである。

結論的には、是非お読みいただきたい。でも、お買いになるこはお奨めしません、と変更します。こんな変更をした理由は、サンデー毎日の9・5号の、船瀬俊介&渡辺雄二両氏 vs.日垣隆氏の余りにも見苦しい言い争いを読んでしまったためです。2名の著者の広告塔としての機能を本HPが果たすことに対する拒否です。
週刊金曜日「買ってはいけない」評 07.24.99 /市民のための環境学ガイド書庫。「お買いになるこは」は原文ママ

 本文では日垣氏を特に批判していないし、この注釈もつまりこの書き手のバックアップになってはたまらないわという話なのでどちらかというと「買ってはいけない」側への非難である。が、「船瀬俊介&渡辺雄二両氏 vs.日垣隆氏の余りにも見苦しい言い争い」という表現には、含みが感じられる。

 三回目に取り上げた際にも

先日発売のサンデー毎日9・5号には、船瀬俊介&渡辺雄二両氏 vs. 日垣 隆氏の泥仕合大バトルが掲載された。その議論は余りにひどくて、テレビにおける、サッチーvs.ミッチー騒動を思い出して、嫌悪感一杯の状態になったので、この話題は、今回で最後とします。

「買ってはいけない」泥仕合&企業対応 08.25.99/市民のための環境学ガイド書庫)

  というわけで、少なくとも「サンデー毎日」での論争については、日垣氏についてもどうも高く評価していないところがうかがえる。この回では主に企業の対応について取り上げており、「買ってはいけない」対応に追われる企業に同情しつつも、それなりに手厳しい批判をしている。

 残る二回目は、これはまるまる日垣氏についての回となっている。

「文藝春秋」に掲載された日垣氏の「買ってはいけない」批判の記事を論評しているのだが、しかしこれはこれでいまいち歯切れが悪い。

 立ち位置としては、「真面目な大月氏」といえばいいのだろうか。まず、大枠のところの問題意識は日垣氏も共有しているため、批判はどうしても鈍くなってしまうという指摘。

日垣氏自身も、ある種の商品の無意味さには同感しているところがあるからでしょう、矛先がなんとなく鈍ってしまうという感じでした。

文藝春秋の「買ってはいけない」批判 08.11.99/市民のための環境学ガイド書庫)

  また、「買ってはいけない」側がそこまで大真面目に買ってはいけないと主張しているわけでもなさそうで、そこに真面目に切り込んだ日垣氏にそこまで意味があるのだろうかという疑問を投げかけている。

今回の話、こんな風に理解した。まず、金曜日側だが、こちらもそんなに真剣に取り組んでいる訳ではなく、ゲーム感覚あるいは娯楽感覚でやっているような気がする。「少々過激だが、自分たちは社会に害を生み出してはいない。ある特定の消費者に対する情報提供サービスをやっているだけだ」、みたいな軽い感覚なのではないだろうか。それでついでに、「原稿料が稼げる」、と思っているのだろう。
 こんな軽い「買ってはいけない」側著者のゲーム感覚を、力ずくで切ろうとしても、それは無理だ、ということを結果的に証明してしまったような気がする。いわゆる「のれんに腕押し状態」。

(同ページより)

金曜日側は自分たちをマイナーであると自認していて、自分たちが書いた本を買った普通(大多数)の人達も、だからといって、その商品を買わなくなる訳でもなく、したがって、誰が被害を受ける訳でもない。取り上げた大部分の商品はもともとそんな重大な商品ではない。所詮「金曜日」は、ある特定の人々のための娯楽と趣味の本である。こんな感じの著者達の見切りに対して、日垣氏は新しい概念を提示できなかったように思います。

 (同ページより)

  というわけで、「ネタにマジレスwww」と要約してしまえるという意味では大月氏に近い見解ではあるのだが、だからといって野放しにしておくべきでもないだろう、というあたりで話を収束させている。

 というわけで、当時から日垣氏の批判は「ヒステリック」であり、「イデオロギーのぶつかり合い」であるかのように読まれている文脈は確かにあったし、一方で「あんな批判で意味があるのか」という形での切り方も確かにあったのである。

 これらの評価について、日垣氏が目立った反論をしたという形跡はない。1999年ごろそれ自体は知らないのだが、2000年代初頭ごろには日垣氏のサイトには「罵詈雑言への返答」コーナーがあり、日垣氏についてなされた批判への反論が掲載されていた(その一部は「それは違う!」文庫本版にも収録されている)のだが、これらの人への反論は見なかったように思う。

 別に全部について反論する必要はないのでそれ自体は良いと思うのだが、いっぽうで「買ってはいけない」批判に寄せられた批判について、反論していたケースもある。これについては次回紹介したい。

正義の見方

正義の見方

 
買ってはいけない (『週刊金曜日』ブックレット)

買ってはいけない (『週刊金曜日』ブックレット)

 
「買ってはいけない」は買ってはいけない (夏目BOOKLET)

「買ってはいけない」は買ってはいけない (夏目BOOKLET)

 
それは違う! (文春文庫)

それは違う! (文春文庫)

 

 

 

民俗学という不幸

民俗学という不幸

 
〈愛国心〉に気をつけろ! (岩波ブックレット)

〈愛国心〉に気をつけろ! (岩波ブックレット)

 
市民のための環境学入門 (丸善ライブラリー 276)

市民のための環境学入門 (丸善ライブラリー 276)

 

 

おもいこみ☆真空パック。

 いいかげん日垣隆検証をしろと言われそうなんですけど。

 弁護士の太田啓子氏が、女の子を窒息させるようなAVなるものの存在を知って、こんなツイートをしていた。

t.co

 それに対して、山本弘氏がこんなクソリプもとい引用リプをしていたのである。

  いや、なんていうか山本氏が最近表現関係になるとトンチンカンなことしか言い出さなくなってしまっているのは重々承知だが、ここまできてしまったか。と学会本を新刊出たらこまめに買ってた頃、終わりがけ数年はほとんど山本氏の担当箇所目当てに読んでた人としてはあまりに悲しいことである。

 山本氏については後ろで再び触れるとして、その下で山本氏はツイッター有識者の別名もある鐘の音氏のこんなツイートをRTしている。

  何についていっているのか具体的に述べていないのだが、それ以前にちらほらツイートしてあるAVについてのつぶやきなどから判断すると、やはりこのことについて触れているのだろうと思える。また、ついているリプも似たような判断をしていて、それに対して鐘の音氏が補足や訂正をしている様子もなさそうだ。以下そういう文脈と解釈して話を進める。

 一見明快そうに見えるこの手の話でいつも思うのは、「好き嫌い」はもっと多義的なものではないか?ということだ。俺はトマトはそこまで嫌いではないが、キュウリが嫌いである。もちろん人がキュウリを食べていようと何とも思わない。

 これがクジラやウナギになると話が難しくなる。こういった食品を食べることを嫌う人は、クジラやウナギを嗜好レベルで嫌っているからそういう態度をとっているわけではなかろう。「嫌なら食うな」といわれても、そういう話じゃねえよ、好きだけど食べない、という人も多いだろう。ウナギが好きな人より、ウナギの流通業者や広告のほうに怒りが向く、というもわりと自然な対応である。

 さらにこれが、「食料としての人間」となったらどうだろうか。人肉っておいしいんですよ、とかそういう話をしたいわけではないのは一目瞭然だし、その人肉どっから調達してきたんだ、一番酷いやり方で人肉を調達してるのは誰だ、とまあこうなる。

 要するに、比喩が安直なのである。何かを批判する、ということがおしなべてトマトが好きか嫌いかレベルの話だと思っているのだろうか。

 多分だが、太田弁護士はトマトが好きかキュウリが嫌いかレベルで批判しているわけではないだろう。「吐き気」というのだって、俺が海藻サラダを食べると反射のごとくえづく(生の海藻がひどく苦手なので)とかそういう話ではなく、生身の人間の扱われ方についての酷さを想うという話に読めるし。

 これに先立っているいくつかのツイートもなかなかにひどい。

  嫌いなものというのがトマトならわざわざ食べに行かなきゃ良さそうというのは分かる。しかし、太田氏の場合嫌いなものというのは女性に対する人権侵害なので、目に触れなきゃいいというものではないと思うのだが。

  ツイートの数からしてかなりの時間ネットに張り付いているようだから、そんなに気になるなら自分で調べてみたらいいのではないかと思うのだが。あと、この人が気に食わないものをわざわざ読んでは文句つけてるところ、何度か見たことがあるのだが気のせいかな。それは批判しなくてはいけないという動機があるからだ!というのなら、同じことがフェミニズム活動家の人についても言えるはずである。

togetter.com

 鐘の音氏と同じようなことを言っている人はずいぶん多く見受けられるのも確かだ。Togetterのまとめにも多数出現しているし、それをブックマークしたはてブにも似たような声が多い。確かに、いきなりこの話があったら、なんでこの人?と思うのもわからなくはない。

 しかし、太田弁護士のツイートそのものをさかのぼっていくと、当該ツイートの直前にいくつか関連した話題のツイートがRTされているのがわかる。たとえばこんなもの。

  いずれも、バンドハラスメントというバンドの宣伝ツイートについたレスポンスだ。7ツイート、このバンドのアカウントへの批判的なツイートがRTされていて、その後少し関係ない別の話題を挟んで当該ツイートがある。

 じゃあそのツイートというのはどんなかというと、

   なるほど、と話が見えてくるではないか。これを受けたツイートとみればしっくりくる。

   間の部分はよくわからないものの、このツイートなどはわりとよく事情を要約してありそうに見える。少なくとも、「この弁護士はAVがよっぽど好きなんだろw」のようなよく意味のわからない嘲笑じみた推測よりは妥当そうだ。

 また、こんなまとめもあり、やはりいくつか事情について触れているツイートが見える。

togetter.com もっともこれらのコメント欄や、まとめられたツイート自信にも似たような文脈で吹き上がっているツイートが数多いので、ああまとめた人やコメントしてる人もちゃんと読んでないんじゃないかなあという疑いが出てこない。

  さらにそこをたぐると、その撮影に関する裏話についての記事もある。

youpouch.com  もともと、CDのジャケットで人間を真空パックしたという話があったわけですね。

なかの人には息を止めてもらっています。その間は10秒。真空の完成度を高めるのに5秒、撮影に5秒。息を止めた状態で耐えられるみなさんの平均時間は15秒ほどなので、そこから余裕を見て10秒にしています。念のため、撮影時は1名のレスキュー要員に待機してもらっています。私に何か有った場合に袋を開けるのも、彼の役目。それからもし被写体が具合が悪くなったときのために、携帯酸素と頭を冷やすものは常備して撮影しています。

 確かにかなり用心しないとヤバい案件なわけで、そりゃ危ないというのが納得できる(ただし、この記事自体は太田氏はRTしていない)。で、おそらくその流れで「それを扱ったAVもある」という話を知れば、やっぱりそれは人権侵害は大丈夫なのかというところに思いが至るであろう。別におかしなことではない。むしろおかしなのは、唐突に変なことを言い出したかのようにまとめたひとつ目のTogetterのまとめのほうかもしれない。山本氏にしろ鐘の音氏にしろ、ニセ科学批判やデマバスターみたいなの大好きだと認識しているのだが、ご自慢のリテラシーは何をしている?リテラシーは元気か?

 いや、確かにこの太田氏、公式RTがやたら多いので、たどるの大変というのもわかるが。すでにかなりたぐるのが大変なので、数日後には多分掘り出すのは事実上不可能になりそうである。

 そして、そういう事案がありますよ、という話をうけて、調べるために検索をしてるのだから、そういう事案が入ってくるような検索をかけるのは当たり前だと思える。なのだが、なぜかTogetterでは検索でセーフサーチをOFFにしているはずだと嗤っている人が多数見られる。控えめにいって意味がわからない。あなたR18ジャンルについて調べたい時にR18外しにチェック入れるの?

  エロに詳しいオタクのはしくれとして言わせてもらうと、世の中には呼吸制御というジャンルがある。pixivあたりを自己責任で検索していただければいろいろひっかかってくると思うのだが、まあ三次元で安易にやると命がやばいやつである。ちょっと趣向が違うかもしれないが、安全に配慮した「プレイ道具」のようなものもある。バキュームベッド、などで検索するといろいろ情報が出てくる。それを布団圧縮機でやるのはまあ、危険であろう。

 こういう、二次元ならまだしも三次元だととてつもなくやばいジャンルはけっこうあるというか、エロ漫画全体がわりにそうかもしれない。やたら後ろに入れたがるし。そういうジャンルをあてこんだ三次AVのというのは、注意してしかるべき、というかするのが二次オタの嗜みであるように思うのだが、違うのだろうか。

 で。

 太田弁護士に落ち度があるとすれば、話を趣味のところに持って行ってしまったことだと思う。しかし、これはけっこう個人的に気になるところはあって、異性が苦しんでるところを見て興奮するというのはどうやったって悪趣味じゃねえかと思うのだ。悪趣味といったら語弊があるが、いくら人の性癖は無限といっても、というか無限であればこそ、相手を傷つけることで興奮する、というようなジャンルが理解を得すぎているという状況は結構危ない。

 ミステリーやホラーに比べてエロでこういう話がやり玉に上がりやすいのは、興奮するため、という用途が直結していて、それゆえの「そういうことをやってみたいのね?」という親和性だろう*1。人殺しを楽しむためにミステリー読む人あんまりいないだろうし。特に生身の相手が存在する三次となると。「猟奇的」「恐怖を覚える」というのはそこまでケシカラン評価だろうか。

 線引きの難しさはあるだろうが、広大な性癖の宇宙を全部認めてしまえ!はかえって規制を呼びこむことにしかならないわけで、批判に対してもっと誠実に考えていかなくてはいけない問題のように思うのだが。

 表現規制反対派でも、このあたりについて留保している人もいる。

 例えば極端な話、スナッフフィルムを見てる人はあんまりそれを公言しないし、したら不利益を被ることは容易に想像がつくわけで、その延長線で考えるのはそんなに難しい話なのか?と思うのだが。

 で、それはそれとして、山本氏である。

 鐘の音氏の10000以上RTされていて、されているツイートもそんなわけでかなりナイーブな見方をしているものだと思うが、山本氏も大同小異だ。

 なるほど格闘技やカーレースも人が死ぬ可能性がある競技である。ほほうなるほどなるほど、そうですね。

 で、それって今の話と何か関係あるんでしょうか。

 問題点は多分2つある。まず、それが危険で、やる側も注意に注意を重ねているということは、格闘技でもカーレースでもなされてて、それは見る側からはっきりわかるよね?ということ。なんのためにタオルの投げ込みやヘルメットがあると思ってるんでしょうか。すぐれた身体の持ち主が、高度な訓練を受けてしか出られない、ということが傍目にわかるから、ということでもある。このあたりを、虐待系AVがどれくらい共有しているか、という問題になってくる。合意はどれくらいあるのか、とか危険があぶないときのために控えているスタッフはどうなっているのかとか、まあいろいろ。

 もうひとつは、それが人権侵害にならないシロモノと、いつから確信していた?ということ。山本氏にしろ鐘の音氏にしろ、いじめについてそれなりに発言していたところを見覚えがあるのだが、たとえば山本氏は格闘技が子供のいじめにどれだけ転用されているか、などということを考えたことはないのだろうか。先生に見つかったら、「一緒に遊んでただけですよ、な!」とかいう「強制ではない」話を聞いたことはないだろうか。人を無理やり車に載せてアクセルを踏ませる人はいないだろうが、要するにどっちも場面次第では問題になりうるものだ。で、太田氏は問題になる場面について考えているわけで。山本氏の指摘が、ただのつまらない混ぜっ返し以上の何の意味があるのか不明である。

 もっとはっきりいえば、「死人が出そうだからって、なんで批判されなくてはならないの?」って、相当酷い人権感覚だと思うのだが。そもそも。

 こういうのはむしろ、「なんで格闘技やカーレースは、死人が出かねないのに続けられているんだろう?」というほうを考えたほうがいろいろ見えてくるのではないか。

 このあたりの感覚を、たとえばこんなふうに表現しているツイートもあった。今回、やたら引用RTが多くて申し訳ないのだが、いまいちピンとこない違和感を人のツイートで腑に落ちる、ということが多かったのでご容赦頂きたい。

  プロレスがしばしばショーだと言われるように、「AVだってフィクションなんだから、あくまで演技で小さい穴とか開けてあるかもしれないじゃないか」という声もあったが、だったら余計にヤバいのではないか。歴戦の人殺しでもないかぎり、何をどれくらいやったら人が死んだり後遺症が残ったりするかなんてのは大抵の人はわからんのである。つまり、それが演技なのかやらせなのかが分からない。ということは、より危険だ。プロレスの真似事で一番危険なのは、本当はショーだから手加減したり下準備がされていることを知らずに、「すごそうな技を真似しちゃう」ではないのか。

 AVの真似をするとヤバいですよという話は少し前にも話題になっていたと思うのだが、要するにそういうことでもあるわけで。ちなみに、こういう話ですぐ持ちだされる火曜サスペンスなんかは、そもそも真似してる時点で危害を加えるつもりだという点で異なる。

 フィクションとノンフィクションの区別というのはつきそうでつかないこともある。やばいのは、「ノンフィクションであるかのように見せかけて、フィクションが入り込んできている」を真に受けてしまうということだと思うので、このAVの案件などはどんぴしゃではないか。だからこそ、フェミニズムからある程度遠い人でも、太田氏の消費する側への嫌悪は批判しつつも、しかしこういう趣向はなんとかしないと事故が危ないだろう…… みたいな人がちょくちょく見えるわけで。そう考えると、山本氏や鐘の音氏の「木を見て森を見ず」ぶりは目を覆わんばかりである。

 鐘の音氏は、「美味しんぼ」の中で福島に取材に訪れた山岡が鼻血が出たと騒ぐシーンを(正しく)批判した人でもある。なぜフィクションのはずの「美味しんぼ」を批判の俎上に上げたんだろうか。この批判が的を射ていたと自分が思うのは、「美味しんぼがフィクション仕立てながら、現実の日本の社会問題を扱っていたから」だと考えているし、それは、フェミニズムの人がフィクションやAVの描写や女性の扱われ方を俎上にのせることと同様の構造ではないかと思うのだが。

 あと、この人も近代史関係でけっこう興味深く見てるアカウントなんだけど、これもひどいだろ。

 

紅 -KURENAI-

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AV出演を強要された彼女たち (ちくま新書1225)

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いじめの光景 (集英社文庫)

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幽☆遊☆白書 (12) (ジャンプ・コミックス)

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*1:実際にはこまかくみていけば、例えば玉潰しエロ漫画は読むけど自分で潰されるのは勘弁、という人とかだっているのは知っているけれど、まあおおよそは

ようこそ言いっぱなしの教室へ。

※ブログのコメント欄にいただいたコメントが全部承認待ちのままになっていることに気付いたので、今回承認いたしました。中には数か月にわたって承認待ち状態だったものもあり、大変申し訳ありません。

 

 今回は特に書籍の検証というわけでなく、最近のついったで見かけた炎上ツイートからいくつか。

クレド会員の炎上。

  NHKがAIを利用したと称するトンデモ番組をやって炎上した件について、ハフィントンポスト日本版編集長の竹下隆一郎氏がおかしなことをツイートして炎上している。

twitter.com

 その後撤回したようなのだが、そもそも何が言いたいのかよくわからない。「いとして、はてブを見るとみなさん「報道と面白さをごっちゃにしてるのか」のような文脈で批判していて、ああそういうことなのかと思った。

 はてブのコメントにもネットにつきもののマスコミ嫌いや朝日嫌い(竹下氏は元朝日記者)が垣間見えて同意できないところがけっこうあるし、竹下氏の問題意識そのものは3割くらい同意するところもある(この文脈で発動すべきかというと、そうは思わないが)。

 で、自分が思ったのは、「ああ日垣氏のクレドの人か」であった。この人は日垣氏のクレド会員だったことのある人で(今もかは分からない)、しかもけっこう活動の多い関係だったようである。なんというか、よくリテラシーが高い低いというようなことがあるけど、案外根本的なところで分かつのはこのへんの意識の問題じゃないかと思ったりする。ありていにいえば「雑学はアヤシゲなところも魅力」と言っちゃえるかどうかの問題というか。

山本弘氏、議論を放棄する。

  最近日垣氏よりと学会関係のエントリばかり書いているのだが、最近元会長の山本弘氏がちょっとやばいことになっている。

 山本氏がと学会とかSFとかとは別に、昔から表現規制反対の論陣を張っていたのは知っているというかむしろその点でも敬意を持ってもいたんだけども、最近そっち方面のツイートに首をかしげたくなるものが時々見られるようになった。なんというか、表現規制界隈のおかしめな人に汚染されたのかと思ってしまうような。筒井康隆がやらかしたときもビミョウな気分になったのだが、先日もっとオヨヨとしか言えない事例を目撃してしまった。

 きっかけは、フェミニズム研究者の牟田和恵氏が、森奈津子氏とやりとりしていたレスにはじまる。

twitter.com

  これに乗っかるようにして引用ツイートしたのが山本氏である。

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 まずこの時点でかなりヤバイ。ちなみにこのツイートにはとある「表現規制反対派」のリプライがぶらさがっているが、そのツイートは「そんなのウソだ、こいつはまなざし村メンバーを以前持ち上げてた」という内容である。つまり、森氏や山本氏の「フェミ」認知自体を牟田氏は同意していないわけで、ある意味この時点で語るに落ちているといえる。語ってるのは山本氏ではないが。

 まあそれは横に置くとしても、研究分野の広さをあまりに軽視したツイートである。フェミニズム系のイギリス文学研究者のさえぼう氏のツイートでも、フェミニズムといっても広いから、という指摘がされている。

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 また、フェミニストではないだろうが、歴史修正主義などの著書のある能川氏は、そもそもそれって重要なん?という指摘をしている。どっちかというとこっちのほうが論点としてはクリティカルかもしれない。

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  山本氏は「トンデモ本の世界」をはじめとする著書なりツイッターやブログなりでいろんな分野にわたってものを書いたり語ったりしているので、同じことを研究者もしていると思っているのかもしれない。しかし、そんなわけはないだろう。むしろ、一つのことを掘り下げるためには「選択と集中」を正しい意味で適用する必要だってある。そういうオタクはいっぱいいる、というか少し古いイメージだとそれこそオタクの極北!だとか思ってしまうのだが、山本氏の周りではそうでもないのだろうか。

 まして、インターネット上のツイッターで出回る言論の中で、しかも侮蔑のためのスラングのように使われるフレーズで形作られる「集団」である。それが本当に集団であるかは不明だが。知らなくて当たり前、あるいは存在は知っていてもそれがいま議論の的になっているものとして挙げるに妥当だと思ってなくて当たり前でないか。

 こういうズレた世界観をもとに語っておかしくなる、というのはなんのことはないいわゆる「トンデモさん」にありがちなことである。例えば、と学会メンバー(20年くらい前。今はわからない)の一人、前野昌弘氏が千代島雅氏のトンデモ科学書「ダメな日本のおかしな科学者たち」の書評の中でタイムマシン理論で有名なソーン氏を日本の物理学者が批判しないのはおかしい(千代島氏はこの理論がおかしいと主張しているわけだ。その主張自体も批判されているのだが本題に関係ないので割愛)という千代島氏の主張に対してこう答えているものがある。

 ところが、驚くべきことに、ソーンのタイムマシンの理論に対して堂々と公の場で反論している日本の物理学者は一人もいない! まさしく専門家としての物理学者の組織である日本物理学会は、自分の存在のすべてをかけて徹底的に反論するのが当然だと思われるにもかかわらず、(私が知っているかぎりでは)そのような話は全くない!(引用者註:ここまでは千代島氏の著書からの引用)

 

とまで言われなならんようなことだろうか。たいていの物理学者(素粒子、物性、原子核宇宙線、その他タイムマシンとは何の関係もない分野が専門である人の方が圧倒的に多い)は、ソーンが何言ったか知らないか、何言ってても知ったこっちゃないと思うのだが。

 また、千代島氏はホーキング理論についても同じようなロジックで日本の物理学者を非難しており、それについてもこうコメントしてある。

ついでに言うと、ホーキングの虚時間形式を使った宇宙の生成の話自体は、日本物理学会の物理学者みんなが信じているわけでもなんでもない。さっきのタイムマシンと同じで、ほとんどの人はそういう話題には無関心なのではないかと思う。

 ソーンもホーキングも、その世界ではけっこうなビッグネームである(少なくとも、タイムマシンの研究者でもなんでもない自分が名前を知っている)。「まなざし村」など、そりゃあ知らない人もいるでしょうなとしか言いようがない。いうなれば、清家新一鈴木貞吉を知らない物理学者がいるなんて!というようなところだろうか。ちなみに科学畑とかその中の物理畑の若い院生などでも、それ誰だ唐突に何をお前言ってるんだという方がおられましょうが知らなくていいです。

 トンデモさんというのは思い込みが強いことが多い(と思う)ものだが、それをまんま山本氏がやらかしてしまっているというのはなんだかなあである。

 以上前フリ

 いろいろと批判はしてみたけれど、ここまではまだわかるのである。つい自分の狭い世界で語ってしまうこともあるだろう。そういうのがなく、いつも「客観的」な語り口を保っているほうが不気味かもしれない。問題は、事後である。

 これに対して、シュナムル氏がこういう反応ツイートをした。

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 だいたい自分の感想もこの通りなのだが、これに対する反論が、ひどすぎる。

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 微妙に議論がすれ違えているように見えるし、フェミニズムに関する誤ったイメージが世間に広まる原因は「まなざし村」などという言葉を乱用する層のせいじゃないかとも思うので、それはそっちの「一部の暴走している人間」に言うことではないかという気がする。ともあれ元のツイートは山本氏がしているような話をしてないので、こう反論というか説明される。当たり前であろう。

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 ここまでは、一応わかる。ここで山本氏はこんなことを言い出すのだ。

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 話が通じない、というのは山本氏自身のことではないのか。

 議論をしない、という選択を否定するつもりはない。ツイッターというかネットでは、議論をすることに不毛さしかない場面だって多々ある。これがそうかは分からないが。しかし、それなら黙って打ち切るとかやり方はあるわけで、自分からリプライで絡んでいった上に傍目にも変な対応というのはどうなのか。

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 さすがにシュナムル氏はこう反論、というか諭すのだが、ここでリプライの応酬は途切れている。

 と学会員の中でも、山本氏はいろんなトンデモさん(だけではないけれど)相手に論争をしている場面が昔から多い人であると思う。結果、相手のトンデモ主張がよりわかりやすくなったり、新たな問題が見えやすくなったということも多い。

 そういう人がこのような対応に終始してしまったというのは、どうしても「そういえばあの論争もこの論争も山本氏が引用する形で納得したんだよな。あれってどうなん?」という疑惑を引き起こしてしまう。それもずいぶん非論理的な考え方だし、まあそんなことはないと信じたいところだが、そういう意味でたいへんまずい炎上の仕方だよなと思う。

 ちなみに、ツイッターのフェミ言論系オタクのアカウントの一人、デビルトラック氏は一連の流れにこう反応している。まあ、そうなるな。

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 実はだいぶ前に別のところで山本氏が「まなざし村」というフレーズを使っているところを目にしたことがあり、うーん……という気分になったのだが、ここにきて露わになってしまった感じである。

 と学会といえば、こちらも退会済みだそうだが菊池誠氏も目も当てられないことになってしまっており、なんというかどうしてこうなった

 

 

 

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

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ダメな日本のおかしな科学者たち

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ヴィジュアルガイド 物理数学 ~1変数の微積分と常微分方程式~

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唐沢俊一検証blog、(かってに)分校、Part2。

 久々の更新である。

 前回は、と学会を立ち上げたのは私なんであるという唐沢俊一氏の主張について、「トンデモ創世記」を参考資料として考えてみたわけだが、この文章をまとめるために「トンデモ創世記」を引用して打ち込んでいるうちに、「なんじゃこりゃ」と思うところがあった。「と学会」という名のネーミングの由来について、とくに「と」の由来について唐沢氏と志水一夫氏が話している箇所である。

唐沢● あれはハマコン(編注:横浜のSF大会)で、「トンデモ本大賞」の第一回やって大ウケしたから、ウケたウケたと言いながら中華料理食いながらって話で。
志水● あれはね、藤倉さんがその前に「路上観察学会」で観察対象のことを一文字で何か言うでしょ。
唐沢● トマソンの「ト」?
志水● じゃなくて、「ろ」とかなんとかって元になるものがあって、それをヒントに「と」ということを提唱して、同人誌だかチラシみたいなのを出したらしいんですよ。それをみんな忘れてるんだけど、巽孝之さん(編注:慶應義塾大学教授)が覚えてらした。「と」っていうので、昔、藤倉さんがやってたよって。

(「トンデモ創世記」(p112)

 トークライブみたいな場でこの会話がされているところを耳にするのなら、あるいはさして違和感もないのかもしれない。対談本だから、昔これを読んだときも、そんな感覚だったのだろう、特に気になったたおぼえはない。しかし、これ何を言ってるのやら意味がわからないだろう。唐沢氏がこの当時からウケタウケタが大好きだったというのはわかるのだがそんなことはどうでも良いわけで、全然「なぜ「と」なのか」という質問にこたえていない。

 まず、先にコメントしておくと、この部分は前エントリで「路上観察学会の名前が登場している」と言及しているくだりである。あまりに意味がわからなすぎて紹介しなかったのだが、この対談の不可解さについて今回書くにあたって、改めて引用してみた。

 まあともかく、志水氏いわく、「路上観察学会」で観察対象のことを一文字で何か言う、というのだが…… よくわからない。そんなものあったっけ? 路上観察学会関係の本というと、「路上観察学入門」」「超芸術トマソン」あたりは手元にあるので、そんな話あったっけなあ、と思ってパラパラやってみたが、「一文字でトマソンを言い表す」なんていう話は見当たらない。

 まあ確かに赤瀬川氏が好みそうな言い回し、というのは思わなくもない。路上観察は80年代にはそれなりに大きなムーブメントだったようなので、書籍にまとまっていないところでそういうのがあったのかもしれない。しかし、だとしたら注釈でも入れてなければなんとも分からないだろう。

 この本は対談をまとめたものである。会話なんてものは、ほっておいたら脈絡がないやりとりになりがちである。だから、対談とか鼎談となるとあとあとの再構成というのは大事なんだろうなと思うが、にもかかわらずこれである。ちゃんと編集や再構成をしているのだろうか? などと思えてきてしまう。

 「トンデモ本の大世界」にみる「と学会」の由来

 しかしまあ、「と学会」の由来などという話である。他の書籍での言及と照らし合わせれば、二人が何を言いたかったか分かるかもしれない。

 「トンデモ本の大世界」に、藤倉珊氏の手による回想が収録されている。この回想は「なぜトンデモ学会ではなく、と学会なのか。それを説明しよう」にはじまっており、今回の話には格好の参考になりそうである。

 ということで読んでみると…… もう少し事情がつかめてくるような、ますますよくわからなくなるような。まあありていにいうと、二人とは全然違うことを書いているのである。共通することといえば、「と」なるものの出処は藤倉氏である、ということだろうか。

 以下に引用する。

一九八〇年代において坂村健という人がOSの世界でトロン・プロジェクトを立ち上げた。トロンというと今では組み込み系のOSのイメージで地味に思えるかもしれないが、当時は非常に壮大な構想をぶち上げていた。それこそ坂村健が世界を征服してしまうかも、というほどの勢いがあった(OSを制する者が世界を制するという意味では、本当にそうなった。あまりいい結果ではないようだが……)。

 TDSFではトロンプロジェクトのパロディとして「と論プロジェクト」という冗談をやっていた。とんでも論計画というわけだが、そこでは本にはと本、アニメにはとアニメ、ゲームにはとゲームというようにトンデモ論にさまざまな形が供給されることになっていた。あくまでトロンにMトロン、Bトロン、Cトロンのように用途に応じてさまざまなOSが供給される計画のパロディである。曲がりなりにも実態があったのは私のトンデモ本論だけであった。

 「と論プロジェクト」の「と」はトンデモの短縮形である。いくらなんでも一文字では省略のし過ぎであるがトロン計画との名前の相似に原因がある。
(「トンデモ本の大世界」p123-124)

 こちらは、さきほどの対談に比べれば話の経緯はつかみやすい。

 この回想では、路上観察についての話は特に出てこない。ヒントになったのは情報科学の世界で80年代に話題だったという、トロンプロジェクトである。別にシステムがどうこう、という話ではなく、トロンだから、と論。まあダジャレである

 もっとも立ち上がり当時にリアルタイムでない世代なので、トロンの当時のイメージじたいがまず私などにはよくわからない。第五世代コンピュータとどう違うんだっけ?という感じだ。TRONプロジェクトとはというページに引用されている、立ち上げ人である坂村氏自身の説明によれば、こうである。

TRONプロジェクトは、一九八四年、当時東京大学理学部情報科学科助手であった坂村健氏の発案により開始された。初期においては、工作機械、ロボット等の制御用組み込みリアルタイムOSを開発する計画と受けとめられていたが、I、B、M、C各TRONからなるシリーズ化の概念が発表されるにいたり、コンピュータの体系全体を新たな概念のもとに作り直すという遠大な計画であることが明らかになった。ITRONが制御用マイクロプロセッサのための組み込みリアルタイムOS、CTRONはメインフレーム・コンピュータのためのOS、BTRONがエンドユーザ向けの統合操作環境を提供する高水準OS、MTRONはモジュラー・パネルによる住環境制御用インテリジェント・オブジェクトの規格およびその分散制御用OSである。

初出は坂村健「新版 電脳都市」(岩波書店、1987)

  トロンという計画がマイクロプロセッサ向け、メインフレーム向け、などとそれぞれの用途にOSを提供する(予定であった)ように、メディアに応じての「トンデモ論」を供給する、と。こうまとめたら藤倉氏の文章とさして違わなくなったが。要するにあくまで元は「トンデモ」であって、「と」という極端な省略形はダジャレのためである、と、藤倉氏の回想によればそういうことになる。

 別にこれが正しいと断定する理由もないのだが、しかし唐沢・志水両氏の対談でのネーミングの経緯とは大きく食い違う。食い違うのはいいのだが(よくはないが、そういうこともあるだろう)、対談のほうは何を言っているのかが不明瞭という問題がある。どうも、よく分からない話である。

 「と学会白書 VOL.1」にみる「と学会」の由来

 と学会本の対談部分で論旨がよくわからないといえば、「と学会」というネーミングつながりでもうひとつ。

 「と学会白書 VOL.1」(イーハトーヴ出版,1997)はのちに色の名前などをつけて継続的に出版されていく「と学会」例会をまとめた本のはしりだが(版元はのちとは違う)、特別座談会という長い鼎談が収録されている。

 ここでも「と学会」の成立事情が語られていて、その箇所である。

司会 だから、「と学会」というのもいいかげんに、人に聞かれて言った名前らしいですよね。
山本 いや、あれは覚えてるけど、横浜のSF大会が終わった後、僕とか唐沢さんとか志水さんとかで一緒に横浜の中華街に……。
唐沢 そうそう、中華食いに行った。
山本 そこで、こういう会に何か名前をつけましょうかって言ったら、藤倉さんがこういうのは我々は「と」と呼んでますって。
唐沢 じゃあ「と学会」でいいやって。

  ふむふむと読んでいくと、次のような会話が続く。

皆神 TDSFのほうから「と」の概念が流れたんだよ。

  お、くだんの「と」由来話ではないか、と思って興味深く続きを読んでいくと、

志水 TDSFの解説を入れなくちゃ。

永瀬 いや、まず星雲賞の解説から始めなくちゃ。

岡田 とにかく酸欠になるまで笑ったよな(笑)。

唐沢 それはよく覚えてる。よく笑う客がいるなあ、と(笑)。 

志水 TDSFの解説を入れなくちゃ。

 ということで話がずれてしまう。じゃあTDSFの解説が入るかということそういうこともなく、そのあとには岡田氏のと学会ファーストコンタクト話が続いているのだが…… そんなものはどうでもいいとはいわないけれど、「と」の概念がどうこうの話はどこ行ったのだ。そしてTDSFはどこ行ったのだ。結局知りたいポイントには言及されていなかった。というか、岡田氏の発言から話がずれていくのがあまりに唐突過ぎて話がよくわからない。永瀬氏の星雲賞うんぬんも分かりにくいのだが、トンデモ本大賞の名前の候補に「暗黒星雲大賞」というのがあった、と引用文の少し前で言及されているからそこからのつながりだとかろうじてわかる、その後なんで笑う客の話になるのか。

 たぶん、現場ではなんかその場のノリで分かる話だったんだと思う。これは上の唐沢・志水対談についても言えることだけど。でも、それをそのまま字に起こされたって支離滅裂である。構成が悪い。

 いやまあ、だからどうなんだ、と言われると困るのだが。

「と学会白書 Vol.1 」にみる「と学会」立ち上げ

 これだけで終わるのもどうかと思うので、「と学会白書 Vol.1 」の中で「と学会」立ち上げをめぐって言及されている箇所を紹介。まず、山本(元)会長の文章から。

トンデモ本を)誰かが紹介してくれるのを待ってはいられない。自分たちで積極的に収集し、研究史、この面白さをもっと世間に広めようではないか。そう思った僕は、トンデモ本を集めた同人誌『超絶図書館』を自分でも執筆する一方、藤倉氏と連絡を取り合い、研究グループの設立について話し合った。

 漫画原作者で古書コレクターとして名高い唐沢俊一氏を引きずり込もう、と言い出したのは藤倉氏である。「あの人なら、私たちの意図を正しく理解してくれると思います」というのだ。まさに慧眼である。

 それと前後して、志水一夫氏のツテで、皆神龍太郎氏も加わった。また、『超絶図書館』を買って漫画家の眠田直氏からも連絡があった。あたかも磁石に吸い寄せられるように、様々な人材が集まってきたのである。

 

  じゃあその呼びかけをしたのは誰かというと、山本氏と藤倉氏、志水氏のようである。1991年のSF大会で山本氏が「超常現象ぶった斬り講座」というものを志水氏と一緒に開催した際に、『日本SFごでん誤伝』の著者である藤倉珊氏を紹介され、そこで「トンデモ本」という概念を藤倉氏から知らされることになったのだという。そして、上の引用へと話が続いていく。つまり、唐沢氏が引っ張り込まれる前に、あらかじめグループの設立の計画はあったのではないかと読める。もちろんそれが「学会」という形かどうかは別として。

 座談会の部分でも、こういう発言がある。

唐沢 それは僕がね、当時変な本を集めてることを『ガロ』でマンガに描いていて。
山本 『能天気教養図鑑』。
唐沢 そうそう。その中で川守田英二さんの『日本エホバ古典』とか『口笛の吹き方』とかね。
唐沢 そう、そういう本があったんで、こいつなら変なこと知ってるだろうかというので。
山本 最初は、エーッと思ったんだけど、それもおもしろいかもしれないと思って唐沢さんにお手紙を出して、いっぺん我々と会ってくださいって言ったんですね。

 

  「エーッと思った」という部分にほほうと思ってしまうのだけれどそれはそれとして、この言及もやはり、さきほどの山本氏の文章とだいたい同じことを言っている。あくまで個人的に思うことだが、ポイントは、唐沢氏自身も自分が立ち上げたなんて言ってない、呼ばれた側だということを特に隠していない、というところではないか、と思う。

 

トンデモ創世記 (扶桑社文庫)

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トンデモ本の大世界

トンデモ本の大世界

 
TRONを創る

TRONを創る

 
と学会白書〈VOL.1〉

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路上観察学入門 (ちくま文庫)

路上観察学入門 (ちくま文庫)

 
超芸術トマソン (ちくま文庫)

超芸術トマソン (ちくま文庫)

 

 

唐沢俊一検証blog、(かってに)分校。

 今回は日垣氏からはちょっと離れて、唐沢俊一なる人物について。

 10年くらい前までは、わりと書店のサブカルコーナーに著書のある人だった。そのころネットからの盗用をやらかしたことで少し話題になり、その盗用について当面は謝罪したものの、のちに自著のあとがきで愚にもつかない言い訳で被害者攻撃に走ったことからネットで再度批判の火がついた末に書いてるものがパクリとガセだらけであることが判明した人である。そのせいかは知らないがその後は連載や著書の数も急減し、今ではtwitterでちょっと偏ったツイート(婉曲表現)などを日々垂れ流している程度である。トンデモ物件を発掘する「と学会」の関係者でもあったのだが、そういう立場にありながらよく読むとトンデモ親和性がとても高いという、マジメに検証してるメンバーにいらぬ火の粉を振りまいていた人物でもあった。

 トンデモ本シリーズは結構好きだったので唐沢氏のことも漠然と信用していたのだが、盗用からの検証がはじまったのちにあらためて読み返してみると、なんとなく同意できないなあで読み飛ばしていたところが軒並み唐沢氏の手によるものだった上に、「なんとなくで済まないだろこんなイイカゲンな文章」と愕然とした記憶もある。

 それはともかく。

 唐沢氏の動向については、少し昔までは唐沢俊一検証blogというサイトがあって、メインは唐沢氏の著書や発言のパクリやガセを検証していたのだが、それ以外の活動情報もトレースしてくれていた。しかし、最近はもう検証は一段落のていの上に唐沢氏本人の商業的なところでの文章もほとんどなくなったということだからか、一年近く更新がされなくなってしまっている。

 で、同じくと学会人脈の山本弘氏や原田実氏のように*1twitterをぼんやりとやっているだけでもツイートがちょくちょく回ってきてネット論客としてよく目にする、というわけでもないし、唐沢氏が今どうなってるか知らないでいたのだが、なんでもクラウドファンディングをしていたらしい。

 もともと唐沢氏は懇意にしている小劇団を通して演劇方面での活動もやっていた。で、物書きの仕事がほとんどなくなってからはそちらに軸足がおかれるようになっていたのは、検証blogなどでも伺えた。そこからクラウドファンディングというところに話が進むのも、自然なように思う。クラウドファンディングという手法自体はいろいろ思うところもないではないものの、いまどきの試みとしては別段とやかくいうべきことでもない。

 ただ、失礼ながらウケてしまったのは

4,500円コース(税込) オリジナルDVDコース

3人が支援しています。

10,000円コース(税込) オリジナルDVD+オリジナルスタッフTシャツコース

2人が支援しています。
15,000円コース(税込) オリジナルDVD(特典映像付き)+Tシャツ+サントラCDコース

1人が支援しています。
20,000円コース(税込) オリジナルDVD(特典映像付き)+Tシャツ+ノベライズ本(サイン入り)コース

1人が支援しています。

 というわけで目標額が300万円なのに対して集まったのが7万弱ということだそうで。いちおう(少なくとも元は)有名人なので、クラウドファンディングのような形態での資金集めには親和性は高いんじゃないかと思うのだが……

Q:芝居版「お父さんは生きている」とは何ですか?

A:同じ役者(予定)、同じ設定で、全く違ったストーリーが展開される

  10月公演予定の演劇のことです。一定額以上の支援者の方を

 ご招待させていただきます。

 ということなので、つまりDVD化したものと芝居にしたものは別物ということだろうと思われる。ところが、年末の唐沢氏の発言を見る限りでは、芝居をDVDにしただけのようで……

 唐沢氏の芝居については、個人的にはまったくといって良いほど興味がないのでその内容については云々できないけれど、しかしまあ、あまりクラウドファンディングにのってくる人がいなかったのも残念ながら当然といえそうな信用度で、しかもそれには内実がともなっていたんだなあということがなんとなくうかがわれる。

 もうひとつ、唐沢氏がと学会を立ち上げたと主張している、という旨のツイート群があった。Togetterにまとめられているものがこちら。

 「トンデモ本の世界」シリーズはごく最近の数冊を除けばだいたい持っているので、ここで疑問視されている点というのはかなりよくわかる。「逆襲」におさめられていた立ち上げドキュメントふうのマンガでは、山本弘氏と藤倉珊氏が知り合ったのがきっかけになっているように書かれていた。そりゃマンガはマンガじゃないかと言われればそれまでというか、ベテラン作家に問い詰められてピンチの山本氏の前に古本屋帰りの藤倉氏がさっそうとあらわれてくるとか、そのベテラン作家が小松左京荒巻義雄平井和正(原文ではいちおう一部伏字になっていたが)であったりとかからしてまんま事実でないことはわかるんですが、それにしてもそこでは唐沢氏はあとから加わったオマケとしてのみ登場する。

 ていうかトンデモ本シリーズがここまで続くきっかけであったであろう、初期二冊にはほとんど唐沢氏の影はない。「逆襲」に3本の記事があるのみである。ちなみに「トンデモ本の世界」シリーズ立ち上げの立役者であった、町山氏は「1本」と書いているのだがこれは勘違いと思われる。

 しかしまあ疑問視ばかりしていてもしかたない。唐沢氏と志水一夫氏の対談「トンデモ創世記」から、登場する「と学会」立ち上げの際のエピソードをひいてみよう。

 

トンデモ創世記 (扶桑社文庫)

トンデモ創世記 (扶桑社文庫)

 

 

唐沢● 志水さんが、「と学会」会長の山本弘さんと藤倉珊さんを引き合
わせたのは何年頃なんですか?
志水● 九一年のSF大会で。金沢だったと思います。
唐沢● ああ、i-CONのとき。あそこで引き合わせたんですか?
志水● 横浜のSF大会で「トンデモ本大賞」がはじまっているから、その前のときです。

(「トンデモ創世記」扶桑社文庫、p110)

で、このときは唐沢氏が初めてゲストとして参加した年でもあるらしい。落語をやってくれということで声がかかったのだそうだ。そこで、本の話をしたところ、と学会へ入らないかという話がかかったと。

唐沢● あのときは、立川談之助とかと一緒に行ったんだよな。弟と三人
で。で、僕が落語やったんです。そのとき枕で本の話をしたんですね。
その頃、『ガロ』に古本ネタの連載をしてたんです。『日本エホバ古典』
だとか、『口笛の吹き方』だとか、けったいな本を紹介してたんで、それを読んだ藤倉さんが、「唐沢さんも入れたらどうですか?」って推薦してくれたらしい。なぜかというと、あの人は落語の大ファンで、落語の話ができる人をメンバーに入れておきたかった(笑)。そういう意味では、金沢の大会というのはトンデモ元年ですね。

(「トンデモ創世記」扶桑社文庫、p111)

 これだと、藤倉氏と山本氏が先に引き合わされた後で、唐沢氏に声がかかった、と読める。 

 で、その流れで「トンデモ本大賞」ができて、次の年のSF大会で第一回が主宰され、おおいに好評だったとあいなる。この本では、その後の打ち上げで「と学会」が立ち上がった、という流れが語られている。

唐沢● 最初は「と学会」だから「こいつは『と』だ!」とか、「『と』の匂いがする……」とか、「バカ、ケチ、ナマケは『と』を飲まないって(爆笑)。そういう使い方をしていた。しかし、「トンデモ」っていうのはね、概念から何から、本当二十分でしたね。「何て名前にしましょうかね。『と』が付くから、『と学会』でしょうね」っていう。「会長はやっぱり、山本さんでいいでしょう」とかね。選挙なんかしないで。

志水● あ、そうそう。流れで決まったんだよね。

((「トンデモ創世記」扶桑社文庫、p149)

 ちなみに、文意がとびとびでちゃんと解釈しようとするといまいち理解しがたいところが目に付くかもしれないが、それは私もよくわかりません。ただまあざっと読みつつ経緯を認識するとして、この中でも、だれが立ち上げたかについては語られていない。

 これが20年たつと、

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 という「こと」になってしまっている。

 そしてそのあとツッコミが入ったのか、いろいろと弁解をした末に(上のまとめ参照)、

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「トンデモ創世記」でもそんな話は出てきていて、

唐沢● (前略)終わったあと、これって来年からどうするんですか、来年もやるんですか?」っていってたのが岡田斗司夫(笑)。

志水● それいいね(爆笑)。

唐沢● それで僕が、「学会を作ろうと思うんですよね」って言ったらドッとウケて、オチみたいになった。あれは「ハマコン」でしたかね。

志水● そう、横浜でした。

唐沢● 打ち合えで、みんなで中華街でメシ食いながら、「なんか今日はウケたね」って話になったな。シジミの醤油漬けかなんか食いながらね。

(食い物の話5行略)

唐沢● そうそう。それで、「じゃあ、いっそのこと会を創ろうか」って話したのを覚えてるな。

志水● そうだよね。

(「トンデモ創世記」扶桑社文庫、p102~103)

 「それで」とつながっているので、関係ある話を私がはしょっているように見えるかもですが、この前は食い物の話です。それはともかく、このエピソードを見ると、弁解した「あと」についてはそこまで今の話とそれほど違いはないようだ。ただニュアンスはだいぶ違っていて、「学会をつくろう」はあくまでネタとして言い出したことや、山本氏を会長にしたのは別にきっかけ話ってよりはとりあえず押し付けたようなニュアンスになっていたのが「と学会立ち上げに至るピース」のように語られるようになっている。ちなみに山本氏本人は自分のサイトで、「と学会会長という地位だって、他の連中から押しつけられて、しぶしぶなったものだ」と発言している。まあこれもいろいろ屈託はありそうに見えなくもないが。

 ちなみにここでは引用されていないんだけど志水氏の口からはと学会のルーツ的なところを語っている中に赤瀬川源平氏らの「路上観察学会」の名前が登場していて(別に直接的な影響がどうのということはない)、学会という発想というか「別にクソマジメに研究するわけではない団体が学会を名乗る」現象自体そこまで奇抜なものではなかったようにも読める。

 2000年の段階と2016年の段階の語り方どっちが正しいかというと、それはわからない。おそらく「どっちも正しくてどっちも間違っている」んだと思う。唐沢氏の発言に対する山本氏のツイートも、その立ち位置で発言している。

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 なので、これをどう取るかは皆さんにおまかせするしかない。ただ、これらの発言のベースになった出来事はあったのだとして、最初の発言である「と学会は自分が作った」はその事実をふくらませた、あるいは盛ったものだろう、とは思う。そうじゃなかったら弁解じたいがいらんわけであるし。

 ただなあ。

 唐沢氏は、このと学会についての述懐をしたあと、こうツイートしている。

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 誰かが違う記憶をもとに発言したところで、そっちにも「記憶には誤りもあろう」を適用すればどうとでもなってしまうから、テープレコーダーで保存してる人でもいないかぎり、その「きちんととった証言」なるものが出てくるはずはあるまい。つまり、一見殊勝なツラで「いったもん勝ち」で自分の立場を押し通そうともくろんだ発言をしているわけである。

 いやそれは邪推が過ぎるかもしれないが、しかし唐沢氏は自分が「事実」をつきつけられたときにはこう答えていたのだ。

韜晦趣味、という言葉をご存知でしょうか。海外の作家さんにはわざと自分の履歴をぼやかして、あちこち食い違いを残しておく人が少なくありません。私にもその気があるようです。

研究者なら、ファンというのなら、韜晦趣味の作家をつついてもあまり意味がない、とお気づきください。

以上2引用は、もとは劇団「ああルナティックシアター」の稽古場日記につけられたコメントからの返答。のちに削除されたため、引用は下サイトより。元URLはこちら

トンデモない一行知識の世界 2 - 唐沢俊一のガセビアについて - 「青山学院大文学部英文科卒」という韜晦大自信

 あるいは、自著の間違いを指摘されたときには、こうごまかしている。

 しかし、間違いを間違いだからといって無下に排斥するのは人間の文化を貧しいものにしてしまう。事実、などというのは世界中の人間のうち数パーセントが知っていればいいことではないか?

 火食い鳥は火を食べ、ヒマワリは太陽に常に顔を向け、妊婦<のおなかの右側(左側だったか?)を蹴飛ばす子は男の子。そう国民の大半が信じていたからって、日本社会はどうってことないのである。そっちの方が夢があってよろしい。

 (「トンデモ一行知識の世界」ちくま文庫、p33)

 そんな夢捨ててしまえとしか思えないが、ようするに、人にはやたら実証を求める割に、自分がいいかげんなことを言い飛ばすことに対してはずいぶん甘い、というよりそれに指摘を加えられること自体がきにくわないようである。まあそれは誰でも多かれ少なかれそうなんだろうけど、そういうスタンスを貫いた結果、検証サイトで三桁を下らないガセが発掘される著者になった人物の「真相はかうだ」、自分にはあまり重きを置く気にはなれない。

 ちなみに唐沢氏はさきのツイートでも言及しているようにヤマトのファンクラブを作ったと自称しているのだが、実は事実関係が合わなかったり、さらにはとある俳優の自伝をなかば乗っ取ったり、という疑惑もあるのだが、まあ疑惑ですしね。

 

※今回のエントリでの引用元探しには、トンデモない一行知識の世界と唐沢検証blogを参考にしています。

 

 

*1:山本氏は元会長だが今は会員でないそうなのでこういう言い回しになっている

あらこんなところにネタ元が。

少し前のエントリーで、「さらば二十世紀の迷著たち」の進歩的文化人批判についてのネタがずいぶんと「悪魔祓いの戦後史」とかぶっているという話を書いた。

 このネタに気付いた後、なんとなく「日垣隆 稲垣武」で検索をかけてみたところ、ひっかかった2chの日垣スレで興味深い記述を見つけた。ちなみに、2ch日垣スレはいっときかなりよく見に行っていたことがあるが、この当時は自分は出入りしていない。

544 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/05 12:38
偽善系の「さらば二十世紀の迷著たち」北朝鮮マンセー文化人批判は
叩かれている奴らの人選といい、引用されている部分といい、
稲垣武「悪魔祓いの戦後史」のパクリ。
特に「38度線の北」批判は現物手に入れず孫引きしてる可能性大。
だいたい「ところで、寺尾五郎って誰だ。」って何だよ。
批判しておいてこの人誰ですかはねえだろ。
アンチョコ頼りってことを告白しているようなもんだ。


545 名前: 新垣里沙 投稿日: 03/04/05 23:33
>>544
>だいたい「ところで、寺尾五郎って誰だ。」って何だよ

道路公団民営化委員の川本裕子に対してもメルマガで
「あのひと誰、ないもしてないじゃん」みたいなことかましたけど

 

547 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/06 01:17
>>545
「あんた誰よ?」みたいな皮肉だってこと?
だとしても、そこで言う意図がわからん。過去の人だし、普通の読者には
「さあ?当時北朝鮮せんにゅう記書ける地位にいたんだからそれなりの人だったんじゃないの?」
としか思いようがないから皮肉として成立しないと思うけど。


ところで、新垣里沙って誰だw


548 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/07 12:26
>>544
そうそう、そうなんだよ。あれはパクリっぽい。


549 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/07 14:24
偽善系あとがきより
”「人はなぜ『迷著』にだまされるのか」が仙頭寿顕さんの企画編集で
「本の話」に掲載されたときは二十枚の原稿(×四百字)だった。”

「さらば二十世紀の迷著たち」はこれに加筆したらしい。

「悪魔祓い」の戦後史あとがき
”資料集めその他に労を惜しまず、終始協力して頂き、単行本上梓にも努力していただいた
仙頭寿顕前編集次長に心からの謝意を申しあげる。”

結局、資料提供した文春の仙頭氏が有能だったということでした。
しかし、100冊も斬るのは大変だったというのは理解できるが、
同じ資料を使うならもっと別の部分を引用して違った切り口で攻めて欲しかった。


550 名前: 無名草子さん 投稿日: 03/04/07 19:25

田原総一朗について

>「週刊読書人」九九年四月二日号「田原総一朗の取材ノート」は、
>「週刊朝日」九九年四月二日号「田原総一朗のギロン堂!」を六二%圧縮
>しただけだ。氏は、どちらを舐めたのだろうか。(『敢闘言』文春文庫p197)

日垣氏は、自分なりの倫理観で、こうやって田原総一郎なんかを
批判してきたのかと思ったけども、最近の活動をみると、
結局、「そのおいしいポジションを俺によこせ!」って、ことだったわけね。

これって、要するに
五十歩百歩、
目くそ、鼻くそを笑う

あるいは、

偽善者が偽善者を笑う・・・。

日垣隆総合スレッド 3

 どうも、編集者が同じだったらしい。どっちも持っている本なのだが、これを見て改めてチェックするまでその点には気付かなかった。ま、あとがきだし(と言い訳する)。というか、正直稲垣武氏の本がエラいの、「よくここまで掘り起こしたもんだ」という執念にあると思っていたので、稲垣氏にはややがっかりである。その部分を抜くと、わりと「プンスカしている反共の人」でしかないし。

 ところで仙頭寿顕って誰だ(笑)ってことで、調べてみると、はてなキーワードにはこうある。っていうかはてなキーワードになるほど有名な人だったのか?

編集者、評論家。1959年高知県出身。中央大学法学部政治学科卒業後、松下政経塾、団体職員を経て文藝春秋入社、2004年『諸君!』編集長。里縞政彦、城島了(おうる)などの筆名で活動する。

仙頭寿顕とは - はてなキーワード

  けっこう若い人なのね(といってももう60近いが、稲垣氏の本が書かれたのが90年代前半なので)。そして、松下政経塾のサイトにも卒塾生として名前がある。略歴には「松下政経塾第3期生」とだけあり、それ以上の記述はない。

 2004年には、母校の中央大学の「Hakumonちゅうおう」 という広報誌に「古本屋で学んだ「戦後史」」という一文を寄せている。肩書は「諸君!」編集部統括次長とある。このなかで仙頭氏によって「悪魔ー」の編集をしたときの回想についても語られているのだが、

この本のために、何十年も前の雑誌論文や絶版本などをせっせと集めたのがもう十数年前のことだ。当時はインターネットの古本検索もなく、古本屋等をアトランダムに回るしかなかった。学生時代から古本屋通いは趣味だったから苦にもならず楽しい仕事だったが、刊行後も「北朝鮮拉致事件は原さんの件以外は根拠なし」と論じた大学教授がいたのには唖然としたものだ。そういう学者の粗雑な言論の責任をネチネチと追及する性癖は神保町界隈の古本屋散策から学んだといえようか。

随想おちこち「古本屋で学んだ「戦後史」」(Hakumonちゅうおう 2004 秋季特別号(中央大学)

 まあ私も似たようなメンタリティだからこんなブログをやっているわけなので、立ち位置や思想の違うところは違うところとして、気持ちは結構理解できるところがある。大学あたりでサークルの同級生などにいたら、けっこう仲良くしていたのかもしれない。それはそれとして、なるほどこのあたりがすべてのルーツということなのだろう。ちなみにはてなキーワードの著書一覧によると、この仙頭氏の著書の中には「日本に明日はない! 「左翼的気まぐれ」への挑戦」という本がある。1981年の刊行だ。タイトルだけで判断するのは危険だが、かなり「どういう人か」がうかがえるタイトルであるとも言える。

 また、この人は筆名による著書もけっこうあるようで、里縞政彦という筆名を使って1999年に書かれた「20世紀の嘘 書評で綴る新しい時代史」(自由者)という本もあるらしい。後者は日垣・稲垣-仙頭ラインについて考えるうえで関係がありそうな気もうかがわせるタイトルだ。そのうちに探してみたいところである。

 そのほか、個人ブログだったり2chのスレだったりするので、内容の妥当性についてなんともいえないし参考に掲げるにとどめておくけれど、いくつか以下のようなものが見つかった。

 なんでも「正論」の論文募集に応募していた過去もあった?とのこと。いちおう産経のリンクが張ってあったのだが、肝心のリンク先が404になっていて、それ以上の確認はとれなかった。

 ところで、この仙頭氏、上の個人ブログの中でもそんなことが言われているのだが、どうも末期「諸君!」のカラーを作った人として一部では認識されているらしい。廃刊したころにも、最末期は執筆者や語り口がいつになく変わってしまった、と語る文章を目にした記憶がある(ソース失念)。

 書評家の坪内祐三氏も、かつて「新潮45」にこんなことを書いていたことがある。少し長いのだが、引用してみたい。

今はなき「諸君!」で私は代表作(「1972」と「同時代も歴史である」)を連載し、30枚ぐらいの論考を何本も寄稿したけれど、私は「諸君!」の休刊を悲しんでいない。最後の何年か私は「諸君!」に1本も原稿を発表していない。同誌の中で私の居場所がなかったからだ。ある時期から「諸君!」は「正論」や「WiLL」と変らぬ雑誌になってしまったのだ(以前はもっと大人っぽかった、つまりふくらみがあったのに)。ある時期から、と書いたが、それはSという人が編集長になってからだ。もし私のかなりコアな読者がいたら、私が「三茶日記」(本の雑誌社)の122ページでこのSという人物について言及しているのを憶えているかもしれない。つまり、里縞政彦という人が「20世紀の嘘――書評で綴る新しい時代史」(自由社)で先に私が紹介した(谷沢さんや加地さんの愛読者である)朝日新聞のNさんが編集したムックの編集後記を取り上げて、いかにも朝日的な"機械主義的編集人"と批判していたのに対し、注の形で、「たぶんこの里縞という人は、別の名前で徳間書店から読書日記を刊行している人で、文春のSという編集者だと思う」と書いていたことを。

「文春的なものと朝日的なもの」、「新潮45」2014年12月号

 このSとは「仙頭」の頭文字Sなのだろう。CiNiiで坪内祐三氏が「諸君!」に寄稿していた記録をたどってみると、2009年6月号(休刊前の最終号)に「諸君!」の思い出話のような一文が寄せられている前は2004年までさかのぼるので、話とも一致する。さらにそれ以前になると、かなり頻繁に登場しているのだが(連載を持っていた、という関係もあるだろう)。この文章のつづきにはかつて「Sという人物」から著書を渡されたときの回想へとうつり、同じ右なのにずいぶん違うものだと思った、と評している。

 まあ、編集者はあくまで編集者であり、書き手ではない。日垣氏の文章は、あくまで日垣氏のものである。だから、こんな編集者に編集されたものなんて……なんていうつもりはない。

 ただ、それは一般論の話である。ここまで何回か見てきたように、「さらば二十世紀の迷著たち」の中のイデオロギー批判の部分は、こういう人物による「選書」を下敷きにして書かれた可能性が高いように思えるわけで……

正義と悪魔はどこにいる?

 今回は家永氏の教科書での、原爆投下に関する記述についてみていきたい。

 原爆が第二次世界大戦野中でどういう意味合いを果たしたかというのは今でもたまに話題になることがある。特にアメリカ人が「あれのおかげで終戦にいたった」などと発言して批判のまとになる、というのはちょっと前にもあった。まあ、日本が中国や韓国に対してとる態度の場合もそうだが、デリケートな問題なわけである。そういう話題を家永氏はどう扱っていたのか、ということになる。なにしろ、日垣氏の筆によれば、「広島・長崎に原爆を落とし市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っているらし」いというのだから、それはきっとひどく見るに堪えない書きぶりなのだろう、と思えるわけだが、さてどうなのか。

家永版「日本史」の場合

 しかし、いざ「検定不合格日本史」にあたってみると、実はこの教科書の中における原爆についての記述はそれほど長くない。それだけなら、それはそれで原爆を軽視している証左ではないかという見方もできるので、実際の文章を引用しながら考えてみよう。

これよりさき、1943年(昭和18年)イタリアが連合軍に降伏して、枢軸の一角がくずれた。1945年(昭和20年)5月、ついにドイツも崩壊し、ヨーロッパの戦争は終りを告げた。アメリカでは原子爆弾の発明が完成し、8月には最初の一弾が広島に、次いで第二弾が長崎に投下された。両市は瞬時にして壊滅し、何十万という市民が悲惨な死を遂げた。 (「検定不合格日本史」270p)

 これだけである。

 加えて、欄外では注釈がつけられている。「広島の人口は当時約40万であったが、その過半数の24万7千人が原子爆弾の犠牲となって死んだ。その後原子病が起って死んだ人の数を加えれば、この数字はいっそう大きくなる。」原子病、というのは放射能によって引き起こされた障害のことだろう。こういう呼び名も当時はあったようだ。

 しかしこの文章に、「正義がどちらにあるか」「どこに悪魔が宿っているか」について語っているそぶりは一切見られない。別に、引用を恣意的にしてそういう記述を隠しているのではない。原爆についての記述はこれだけしかないのだ。
 教科書検定による修正を受けいれた上で検定教科書として出版されたバージョンである「新日本史」(1966年版)では欄外の部分の記述の分量が増えていて、原爆での被害だけでなく第二次世界大戦全体での国民の被害について言及されるようになっている。具体的にはつぎのような文章。

一方、ヨーロッパでも、1943年(昭和18年)にはイタリアが連合軍に降伏し、1945年(昭和20年)5月には、ついにドイツも崩壊し、ヨーロッパでの戦争は終わった。アメリカは原子爆弾の発明を完成し、8月6日広島に、9日には長崎に、これを投下した。(「新日本史」257p)

日華戦争以来の戦闘員の死者は約150万、空襲による銃後の国民の死者は約30万に上った。中でも原子爆弾を受けた広島では、その当時だけで約40万の住民の半数を越える約25万の人々が悲惨な死を遂げたが、その後原子病が起こって死亡した数を加えれば、さらに多数に上るにちがいない。(同、260p)

 被害に関する記述についていえば、より丁寧になっているといえばいいだろうか。そして、日垣氏が読み取ったような、「 市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っている」さまはこちらにも見て取ることはむつかしいように思う。

他教科書の場合

 例によって、同じ時期の他の版元と著者による教科書での記述もみてみよう。

日本ははじめポツダム宣言を無視したが、8月6日、広島にアメリカの原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日ソ中立条約を破って日本に宣戦し、同時にポツダム宣言に加入した。翌9日、ソ連軍は満州に進撃をはじめ、長崎にはまたも原子爆弾が投下された。時野谷勝他「日本史」実教出版,1963 265p)

これ(引用者注:ポツダム宣言)に対して、日本政府はなお黙殺の態度をとったため、アメリカは日本を降伏させようとして、8月6日まず広島に、ついで9日には長崎に人類史上初の原子爆弾を投下した。これと同時に8日にはソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告して満州・朝鮮に侵入した。 (宝月圭吾他「詳説 日本史」山川出版社,1959 p357)

その内容(引用者注:ポツダム宣言の内容)は、日本にとってことのほかきびしく、鈴木内閣が受諾をためらっているとき、8月6日、恐怖の原子爆弾が広島に投ぜられた。8日には、ソ連ポツダム宣言に加わって参戦し、満州に進撃した。その翌日、長崎にも原子爆弾が落とされた。 (石井孝他「日本史」東京書籍, p308)

 これら3社と比べた時に、家永版はかなり淡々とした記述であることが目に付く。特に、ポツダム宣言を日本が受諾しようとしなかった点が抜けているため、アメリカが原子爆弾を一方的に落としたかのように読み取れるのは終戦への推移を語る上ではよくないのではないかと思われる。そこのところをはっきりさせないで書いたのは意図的なのかそうでないのかはわからない。そうでないのなら、何も文句を言われる筋合いはないはずで、かりにもし「意図的な」ものだとしたら…… それはどちらかというとアメリカのしたことに対する反感を強めるほうに働くのではないだろうか。もとより「ポツダム宣言を黙殺したこと」と「原爆なる新型爆弾の実験対象として大殺戮」がトレードオフのようなものとして語れないことはむろんなのだが。

 その点に注意して家永教科書の筆調を見ると、むしろ他の検定教科書と比べても感情を抑えつつ怒りがこもった文章としてとることができる。少なくとも「落とした側にのみ正義が宿っている」文章とは見えない。戦争に関する項目の中で、原爆被害の規模について触れているのが家永氏の手による三省堂版のみという点も注目される。意外かもしれないが、それ以外の教科書では触れていないのだ。もっとも、 それは次に触れるように、人数が確定的でないからかもしれない。

 あと家永氏の文章を読むと、原爆の犠牲者数がかなり大きく見積もられていることに気づく「。放射能影響研究所のQ&Aコーナーによれば、広島での原爆での死者は多めに見積もっても16万人程度とされているので、24万~25万という死亡者数は今の視点ではやや過大評価である可能性があるように思う。もっとも、これは、どこまでを原爆による死者とみるかにもよるだろうから即捏造や誇張につなげるのはふさわしくない。中国新聞が出している10代向けにかかれた平和問題記事によると、現在でも、例えば高校教科書でも版元によって12万人から20万人までばらつきがあるそうだ。広島市は14万人という見解をだしているということだこういう幅のある数字を攻撃材料として愛用する人というのはどことは言わんがよくいるし、下手にこだわったところで慢性患者の人に失礼になるだけな気がするので深くは追求しないほうがよいかもしれない。

 ただ、これは言えると思う。仮に家永氏が「広島・長崎に原爆を落とし市民大量虐殺を図った側は正義で、落とされた側にのみ悪魔が宿っている」などという日垣氏の言うような思いに基づいて真実をねじまげた教科書を書いたのなら、こういうねじまげかたはしないのではないか。少なく見積もる方向にねじまげるか、そこまでいかないとしても少なめの見積りを採用するのではないだろうか。それは、ほかのアレコレで人数を「少なめ」「多め」に評価しようとする人が、どういう意図を込めてその声を上げているか、を思い起こせば容易に想像できる。ところが、実際には多めの数字を採用しているのだ。
 などと見ていくと、家永氏の教科書は第二次世界大戦についてアメリカを一番正義として書いていないし、むしろ日本側の被害についてなるべく心の平静さを保ちながら教えようとしたものだ、という評価のほうが近いように思える。それは、検定不合格版のほうでも検定版のほうでも特に違わない。もう少し日本の受けた被害について感情が強いものが東京書籍版で、より淡々とした記述をめざしたのが山川出版社実教出版版、というところか。逆に言えば、家永氏の「日本史」どころか、これらの中に日垣氏が言ったようなスタンスの教科書は見当たらないということである。