「つまらない」とはどういうことか。

  前回の、日垣氏と家永氏についての話のつづき。

 結局、日垣氏はどのようなことをもって「検定不合格日本史」が失敗作だという断をくだしているのだろうか。

 実はこれが、よくわからない。言っている意味がわからないとかそういう意味ではなく、どうしてそれでそこまで強く否定的な態度に出られるのかがわからない。

 たとえば、日垣氏は「検定不合格日本史」をひきながら、こう続ける。

 

井原西鶴がその第一人者で、鋭い観察力をもって現実を見つめ、町人の享楽生活や、利を求めるに敏な才覚、苦しいやりくりの生活などを軽妙な筆で巧みに写している。「好色一代女」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などがその代表作である。》  本当に氏は西鶴を読んでいるのか? あのエロ小説を。まさか「西鶴の才覚」などと、冗談をいいたかっただけではあるまい。ともかくこのように家永本には無味乾燥な記述が延々と続き、これでもかこれでもかと高校生にひたすらの記述暗記を強いるひどく退屈な教科書である。 (「偽善系」)

  引用されている文章が「無味乾燥な記述」かといえばまぁ、そう、そうねぇ…… でもそれは失敗作である傍証のいの一番としてあげることなのだろうか。

 無味乾燥というけれど、私たちが中学や高校で読んだ教科書ってどんなもんかなあと思い返すとこんなもんである。だいたい教科書というのは普通の本みたいに読むものじゃないしマル暗記するものでもなく、先生の説明を聞きながら内容を理解できるようにするものなのだから、要点をチェックできるようにある程度こうやって必要な情報をつめこんだ形式のほうがいいようにも思うのだが、このあたりは見解の相違もあるのだろうか。実際、そういう教科書を目指している版元もあるようなので、教科書のそういう文章自体が一般的に問題だという見方もあるのかもしれない。でも、迷著の理由の一つとして持ってくるほどのこと?

 ここは私以外にもどうかと思っていた人はおられるようだ。

まず、この教科書の抜粋部分。これって僕らが読まされてきた歴史の教科書からして著しく劣るものでしょうか?検定不合格になっても当然のものでしょうか? そもそもあの長大で情報量の多い日本史を、わずか一冊にまとめようというのがしんどい話で、文部省の指導要領に沿って必要事項をブチこんでいけば、誰が書 いても羅列的なものになるでしょうし、現になってます。「ひたすらの記述暗記を強いる」というけど、そうでない検定合格教科書があったら示して欲しい。対比して説明して欲しいです。ところで「記述暗記」ってなんですか?「暗記を強いる」なら分かるけど、「記述暗記を強いる」ってどういう内容なんだろう。記 述を強いるの?なにそれ?それに「強いる」のは教室にいる教師や試験問題であって、教科書ではない。

ESSAY 174/a them and us mentality /「あいつら」症候群シドニー多元生活文化研究会)

 確かにそうである。そして、そうでない検定教科書が成立しうるのか?というのも確かに問題となる。というわけで次回のエントリで比べてみます。

 

 それはそうと、さらに日垣氏は家永氏は西鶴をほんとうに読んでいるのか?と論難している。正直なところ、なんでいきなりそう話が進んだのかの論理構造はよく分からない。読んでいようといなかろうと、無味乾燥な記述をするときは無味乾燥な記述をするだろう。そこは別問題だ。読んでいたら、思い入れたっぷりに記述しなくてはいけない、ということなのだろうか。それこそ教科書として問題でないのか。

 そりゃあ、日本史といっても長いから、全然関係ない時代や分野についてとんちんかんなことを書いている人がいたら、「本当に知ってるの?」とききたくなる、というのは分かる。でも無味乾燥な記述だからって、そこ論難する?

 家永氏はどちらかというと「太平洋戦争」とか「戦争責任」といった、第二次世界大戦をあつかった本の書き手、というイメージがつよい。これは家永氏を知ったあとの私でも確かにそうだ。でも岩波新書に「日本文化史」というロングセラーを上梓していることからも伺えるように、元々は文化史の人である。であるのなら西鶴などはどちらかというと得意分野のほうではないのか。確かに、家永氏はのちに日本近代史に関して大きくコミットするようになっていくけれど、これはまた別の話である。「検定不合格日本史」の原稿が書かれた1956年当時は文化史の専門家といったほうがふさわしいのではないか。で、文化史を専門とする歴史学者にいきなり「本当に西鶴を読んでいるのか」と難詰する動機はいかに。まして、トンデモなことを書いているのならまだしも、「無味乾燥」程度で、である。

 そういえば先ほどのサイトでもふれられているけど、そもそも井原西鶴はエロ小説のひとことで片付けていいんでしょうか。じゃあ源氏物語はロリペド小説で古事記は近親相姦ものってことになるんでしょうか。ここも論理の飛躍が気になるところである。

 というか、論理の飛躍もそうだが、ここで日垣氏が何をどう批判したいのかいまいち明らかでない。エロ小説だったら読んでちゃいけないんでしょうか。それとも評価しちゃいけないんでしょうか。いまいち何を言いたいのかが明らかでない。まさか思いついた冗談をはさみこみたかっただけではあるまい。ちなみに才覚を評価されているのは西鶴じゃなく町人である。

 なお、上でも少し書名をあげたけれど、家永氏は「日本文化史」という本を岩波新書から上梓している。1959年発行なので、ちょうど「検定不合格日本史」の元原稿が書かれたころの少しあとだ。

 

日本文化史 (1959年) (岩波新書)

日本文化史 (1959年) (岩波新書)

 

  家永氏はこの本のなかでも井原西鶴を論じている。そこでは、上の引用と大体似たようなことを述べつつ、性の開放という観点からも肯定的な評価をしている。現在新刊で入手可能な第2版は1982年に改版されたものだが、旧版と比較してみた限りでもこの部分についての評価は基本的に変わっていないようだ。
 それに、家永氏は井原西鶴を手放しで賞賛しているというわけではない。上のような評価をしながらも、一方で退廃的に過ぎたという批判も付け加えており、ちゃんと家永氏は井原西鶴を「エロ小説」という切り口でも評価していたんじゃないかと思われる。教科書ではそんなこと書いたらそれこそ検定に通らないから言及を控えただけだろう。二次元エロとなるとなんでもかんでも無批判に持ち上げてもらえないと不満がる現代の一部の趣味人などとは家永氏は一味違っていたようだ。あくまで「一部」と強調しておきたいが。話がそれた。

 確かに戦前の人でしかもマジメな歴史学者というと、そっち方面にはオカタイのかなあなどと思ってしまうけれど、それは思い込みということなのだろう。家永氏の意見では、日本の古来の伝統では性はもっと開放的であり、儒教が入ってきたことによってそれが抑圧されたのだというという考え方だったようだ。この考え方が実際の文化論としてどれくらい妥当なのか、という点については私にはなんともいえないが、とりあえず「エロ小説」という言い回しを悪口のようにして扱う日垣氏の方が、ちょっと我が身を振り返ってみた方がよいのではないか。

 しかしそもそも論でいうなら、井原西鶴を読んだことのない人が教科書の井原西鶴についての記述を書いて何が悪いんだろうか?というところにある。もちろん、井原西鶴論をやる人なら読んでなくては話にならない。江戸文学史元禄文化の専門家なども、きっと読んでいた方が望ましいんだろう。ででも、ここでは井原西鶴元禄文化のなかの有名どころとして出てくるだけだ。通史や分野を総覧するための本なら、そもそも全部に通じていないのが当たり前、でないだろうか。

 じゃあどうするのかって?もちろん先人の肩の上に立つに決まっているじゃないか。

 悪い言い方をするなら紋切り型ということになるんだけど、オーソドックスなテキストなんて紋切り型でいい、むしろ紋切り型「が」いいじゃないかとも言える。

 だいたい、日垣氏の物言いにならうなら、教科書に登場する文学は古事記から竹取物語平家物語近代文学の数々にいたるまで読んでなきゃならんし、もちろん文学以外についても同様、ということになるのだが、そんなもん一人で書いてないで、複数人で書いたって何百人必要なんですか?ということになる。どうも無理なことを要求しているだけに見える。

 もちろん、歴史教科書の書かれ方に問題がある、紋切り型な書き方の根底にこそ問題がある、という問題意識はあっていい。それはそれとして、さて日垣氏の「井原西鶴についての記述について家永氏を論難する内容」が、そういうものとして望ましいのか。もっと言えば、「迷著」扱いする根拠として足るのか。

 私には言いがかり以外の何かだった形跡が見出せないわけだが、どうだろう。