リメンバー・イエナガ?

  日垣隆「さらば二十世紀の迷著たち」の中では、家永三郎氏の著書一冊と一本が俎上に上がっている。ここで取り上げられている著書とは「検定不合格日本史」で、論文のほうは終戦直後に書かれた論文なのだけどここでは「検定不合格日本史」に話をしぼる。

 

検定不合格日本史 (1974年)

検定不合格日本史 (1974年)

 

 日垣氏はこの本、というか教科書を「明らかな失敗作」だった、と断じて、あれこれと批判を加えた後でこんな一文で批判を締めている。

 あなたは時流におもねるただの野心家であり、歴史学官僚のホープたる自分の主張に後輩の文部官僚が敬意を表せず突っ返してきたことが許せなかっただけだ。教科書裁判の支援者たちが、氏を反権力者と思い込んだのは、ただの勘違いであろう。彼はただ権力者になりたかっただけなのである。 (「偽善系」)

 具体的な批判内容についての検証はあとまわしにして、とりあえずこのくだり、非常にミスリーディングな書き方になっているのが気になるというところからはじめることにする。

まず本題に入る前に、日本の思想史的な背景についてあらかじめ触れておく必要があると思う。前回のエントリに出てきた本のタイトルなどからある程度推し量ることもできるかもしれないが、かなり昔の話だからだ。


 ここでやり玉にあげられている家永三郎氏は、検定による教科書の記述に対する介入をめぐって国を相手取って起こした「教科書裁判」で知られる人である。

 東京教育大学、のちに中央大学教授(出訴当時)であった家永三郎が、自著の高等学校日本史教科書『新日本史』の検定不合格処分や条件付き合格処分を不服と して、教科書検定制度は憲法の保障する表現の自由、検閲の禁止、学問の自由などに反すると主張し、国などを相手どって提訴し30余年にわたって行われた裁判。

 

家永教科書裁判日本大百科全書「教科書裁判」の項目より、コトバンク経由)

家永三郎氏の声明

 

 私はここ一〇年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三八・九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるためにあえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。憲法教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としてもだまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます。

  昭和四〇年六月十二日
家永三郎

 

家永三郎教授の教科書訴訟東京教育大学新聞会OBのページ)より

  この裁判は、1960年代のなかばに最初の訴えを起こされたものだが、その後90年代のおわりまで結論が持ち越された非常に長びいた裁判である。

 提訴から32年にわたる家永教科書裁判は、国民各層に教科書制度を含め広く教育政策への関心を喚起するとともに、教育権理論を深化させる役割を果たした。また数次にわたって教科書検定規則および検定基準の改訂が行われたことは、同裁判の成果と評される。

家永教科書裁判日本大百科全書「教科書裁判」の項目より、コトバンク経由)

 

  前回話題に挙がった「家永日本史の検定」も、そんな流れのなかで出版されたものだ。

 

 このことを日垣氏は「さらばー」の文章の中で触れていない。なので、なんでいきなり家永氏が唐突に「野心家」よばわりされなければならないのか、事情を知らない人にはさっぱり分からない。まあそのあとを読めばなんかの裁判の関係者なんだなということはおぼろげに分かるが。
 まあこういう「さらばー」の構成的な問題については前回も触れたけれど、一部には分量の問題もあろう。また、この文章は2000年にかかれたものだから、当時の一定年齢以上の「読書家」にとっては教科書裁判というのは特に説明なしに持ち出して良かったのかもしれない。当時読んだ私にはよく分からなかったが(少しあとで話題になった、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書をめぐるニュースでようやくそういうことが過去にあったと知る)。

 ただ、ここで一つねじれているのは、この文章は本来、教科書裁判とは直接は関係がない、ということだ。
 教科書裁判の原告が書いた「検定で不合格になった教科書」をやり玉にあげているのにどういうこっちゃと思うかもしれないが、こういうことだ。
 日垣氏がはっきりと断じていないのでわかりにくいが、日垣氏の書き方だと「検定不合格日本史」が教科書裁判で不合格や修正の対象になった教科書であったかのように読めてしまう。
 しかし、この不合格になった教科書は教科書裁判の遠因ではあるかもしれないけれど直接は関係ない。なにしろ、この日本史教科書は1956年の検定で不合格になったものだからだ。いっぽう、教科書裁判は1960年代後半に始まっている。時期的に逆だ。
 「つくる会」の教科書などは学校向けのものが作られてほぼ同時に「市販版」が店頭に並んでいたから、そのセンでみていくと勘違いしてしまう。この本は、教科書裁判が始まってから、もともとは高校生向けに編まれた教科書を一般向けに復刻したものである。冒頭に付け加えられた序文のなかでも、検定のありかたについて論ずる上での資料として改めてひっぱりだしてきたものだということが述べられている。
 もっとも、この序文によれば他にも「一般向けに日本史の通史を」みたいな意図もあったとのことなので、それだけではないだろうけれど。
 つまり、ここで日垣氏がどれだけ「検定不合格日本史」の内容について熱弁をふるおうと、教科書裁判を批判したことにはならない(あるいは、教科書への検定による介入内容を正当化することにはならない)はずなのである。ならないはずなのだが、なぜか日垣氏は平然と教科書裁判についての批判をはじめてしまう。「検定不合格日本史」が出たのはさきほどの事情があって74年なので、年号だけみたら事情を知っていても勘違いしやすい。ミスリーティングな記述だと思う。

 

 それにしても、さっきも書いたけど、この本を始めて読んだときの私には唐突に持ち出された「家永三郎」という人自体に「それ誰だ」だったのであった。まあ、この次の年に家永氏が亡くなられたときに、某ちょう有名な歌手がブログでその名前を出していたという話を聞いたときには、自分の知識不足を思い知らされたわけだが。
 しかし日垣氏は「偽善系」に収録している「クソ本を読む」という書評群のなかで、こういう知識のスコープを無視している本の書評をとりあげてオタッキーな書評だと批判していたはずだ。オタクという言い回しを無条件に蔑視語として持ち出してしまえる感覚はさておくとしても(2000年だしな)、しかし、その基準ではかったとき、「さらばー」はまぎれもなく「オタッキーな書評」ではないのか。
 個人的には前提条件を持ちすぎれば「ガルパンはいいぞ」的な内輪だけを向いたものになるし、あれもこれも説明し過ぎると本題に入るのが長すぎるか、情報商材的文章にありがちなくどくどしたものになるし、なのでようはバランスだとは思うのだが。