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迷著の小ネタ。

4回に渡って「さらばー」について見てきた。今回はその他いくつか小ネタを拾い上げ的に見ていきたい。

稲垣本・日垣本での類似?かもしれないもの

 まず、稲垣氏の著書との重複について。

 前々回のエントリで挙げたのは、引用箇所じたいが重複していたものである。そうでないものまで含めてしまうと、さすがにただのネタかぶりだろうとなってしまうと思うからだ。

 なので以下は、あくまで「題材が同じ」という指摘にとどまる。

 まず、「さらばー」の第4節で、歴史学者でもあり教科書裁判の原告でもある家永三郎が終戦直後はどちらかというと右寄りだったのがのちに左転回した、ということについて触れている。これは、稲垣本でも教科書裁判を扱った章のなかでエピソードとして紹介されている。日垣氏と家永氏の間をめぐっては、別に扱いたいネタもあるので今度もう少し詳しく扱う予定である。

 また、日垣氏は法学者の平野義太郎について、戦前と戦後の言動が大きく異なっているという話を取り上げている。

 正直なところ、家永氏は「戦後になってもまだ」だから批判的に論じる価値があるかもしれないが、戦前となると「それはしょうがなかったんじゃないの?」という違和感が出てきてしまうのだがどうなんだろう…… それはいいとしても、ともあれこの平野氏は「悪魔ー」では登場しない。巻末の索引にも名前はない。

 しかし、これは「悪魔祓いの戦後史」書籍版では省略されているのだが、元々の連載の中では第1回(「諸君!」1992年7月号, p149)の冒頭の緒言で登場する。やはり、戦争中には国粋的なことを言っていた学者の例として取り上げられているのである。ただ、名前が出てくるのみで具体的な発言について引用しているのは日垣氏のほうだけである。

本当は事実上終わっていた帰国事業

 小田実氏の「私と朝鮮」を紹介したくだりで、日垣氏は小田氏のことを文中で「帰国事業で北朝鮮へと送り返した」張本人と批判している。

 しかし、「私と朝鮮」が出たのは1977年である。いちおう帰国事業自体は1984年まで続いたとはいえ、この時期には帰国事業はほとんど終わっている。帰国事業で大量に北朝鮮へ帰還したのは1960年代のことで、この時期にはすでに北朝鮮は実は地上の楽園でもなんでもなさそうだということが国内の朝鮮人の人にも広まっていたためにもう手を挙げる人も減っていたようなのだ。というか、だからこそ小田氏のような有名人にスポークスマンとして語って(騙って?)もらう必要があったのではないか。

 現在では北朝鮮に批判的な立場に立っている佐藤勝己氏も初期は帰国事業にも携わっていたんだそうで、その佐藤氏の回想によると最初の2年間で8割が帰国し終わった、という。また、前述の稲垣武氏「悪魔ー」でも、帰国事業を通じて北朝鮮へ戻った人の数は「62年には前年の6.5分の1の13497人に激減、73年には704人、80年には40人、83年にはゼロ」としている。

 まぁ小田実氏の影響がまったくないと断言は出来ない。最後ごろに帰国した人は小田氏のルポを真に受けて帰国を決めた人もいたのかもしれない。でも、日垣氏のやるように、「犯罪的な事実」だとしてまっさきに指弾するのにふさわしい人なのか。

 それこそ同時にやり玉にあげている寺尾五郎などは50年代に北朝鮮についてほめたたえたルポを書き帰還事業を煽りたてたのだから批判に値するかもしれない。「悪魔ー」に登場するエピソードによれば、寺尾氏は帰国事業が始まった後で北朝鮮を訪れたとき、「全然違うじゃないかどうしてくれる」と帰国した青年に問いただされたということもあったそうだし。

 なのに日垣氏の筆は、そこでは「ところで、寺尾五郎って誰だ。」ととぼけるだけにすぎないのだ。なにかバランスがヘンだ。

それは本当に著者のせいですか

 「買ってはいけない」で名をあげた(とりあえず私の中ではそういうイメージが一番強い)人の文章らしく、「さらばー」には環境ホルモンをはじめとした化学物質や新たに名づけられて騒がれるようになった病気、およびそれによる人体への影響を大げさに煽るような本も取り上げている。これらの本が登場する節は「さらば二十世紀の迷著たち」の最後の節なので、そういった本をひととおり批判(中にはほとんどタイトルとごく短い説明しかされていない本も少なくない)したあとで、文章をこう締めている。

世界中が今世紀ずっと寿命が延び続けた事実を、これらはどう説明するのだろう。 江戸時代の切り捨てご免のキレた侍を、これらの本はどう解釈してくれるのだろう。 私の疑問は、きょうもまた広がっていく。

 この文章が書かれた2000年当時、エイズの流行で寿命が縮んでいる地域が南アフリカを中心に発生していたし、ロシアでは二十世紀末に平均寿命が低下したと思うがそれは本題ではないのでおいておこう。結局「世界中」ってどういう意味?という言葉遣い的なところに帰結しちゃいそうだし。

 で、これをあえて取り上げるのは、この文章はかつて私が読んで拍手喝采した記述だからである。いや実際に手は叩かなかったけど。でも、この手の環境保護や文明病のようなものを取り上げて人類の未来はマックラだ!とするアジり、あんまり好きじゃないので、そうそう、そうなんだよ!と感心したは確か。そもそも「買ってはいけない」批判が、日垣氏という人の文章に好意的に接するようになったきっかけであったんだし。

 でも、今思うと「それっていいがかりじゃないか」という話である。

 環境ホルモンとかあれこれが、実際に子供をキレさせるのかどうかはここではおいておく。でも仮にそうだとしても、江戸時代の侍が切り捨てご免したこととつながりはない。そんなものは多分別の理由があるんだろう、で終わりである。子供がグレたとか。ひいきの歌舞伎役者に恋人が発覚したとか。まあそれは冗談として、こういうものは因果関係はそうそう一意的には決まらないものである。発癌物質がなくたってガンになる人はいるのだ。そんなに気になるなら、それはそれであなたが解釈したらいいじゃないという話になる。

 「寿命が延びつづけた事実」だって、例えば日本では概ね当てはまると思う。でも、それと公害問題にはあまり関係がない。イタイイタイ病水俣病も、日本の平均寿命を縮める働きはしていないけれど、だからどうなのという話だ。それとも、寿命が延びつづけているのだから水俣病イタイイタイ病もどうということはないということなのか。自殺者が何万人出ても、平均寿命に影響はないかもしれない。だからブラック企業も不景気も放っておきましょう。そんなことになるのだろうか。それはさすがにないだろう。

 疑問がひろがっているのは、勘違いのせいじゃないのかしら。