誰も知らない迷著批判。

 日垣隆というルポライターがいる。いや、もうほとんど商業的にはものを書いていないので、いた、といったほうが適切かもしれない。

 昔はけっこう有名な人だった。ある時期に文章のパクリが問題になったりしてちょっと表舞台から消え、また復活するもツイッターとの相性が悪すぎたりして、そのままフェイドアウト……というところである。

 20年近く前に、「買ってはいけない」という市民運動系のトンデモ本を批判したのがちょっとウケたのが名前を有名にしたきっかけ、だったと思う。あとからそれ以外にもいくつかそこそこ版を重ねた本を出していることを知ったけれど、少なくとも、自分がこの人を知ったきっかけはそれだった。まあ「買ってはいけない」騒動についてはいずれここでも書くと思う。あまり批判された側の肩を持つ気にもなれない。

 その「買ってはいけない」少し後で出版されたのが、「偽善系」という本である。

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

 いろいろな社会問題を扱っているのだが、今回触れたいのは、「さらば二十世紀の迷著たち」という文章である。
 これは20頁くらいの短い文章の中で100冊ほどの20世紀に刊行された本(一部、雑誌や新聞の記事も登場する)を取り上げ、バサバサと切り捨てられていくというスタイルのコラムかオピニオン雑誌の短め記事のような文章だ。書評のようだが、実際には日垣氏の主張の筋道があって、それにあわせて本の引用がなされていく、というほうが近い。読書エッセイと書評の中間というか、名前は知らないがこういうスタイルで本を紹介する文章はそれほど珍しくもないと思う。

 もともとは文藝春秋の宣伝誌「本の話」に寄稿したものだそうなので、コラムとして書かれたのかテーマにあわせてかかれたいくつかの文章の中の一つなのか、そのあたりは釈然としないのだけど、「偽善系」あとがきによると初出からだいぶ書き足したもののようなのであまり気にすることもないだろう。

 さて、なぜこの文章を扱うか。
 この文、最初読んだときには「買ってはいけない」批判でこの人を知ったクチとしてはさすがだなあぁとおもしろがって読んだ記憶がある。よく考えたら当時そのリストの中でまがりなりに読んだことのある本はほとんど無かったのだから世話はないが、それだけ読ませる文章ではあったということでもある。
 それから大分経って、今でもそのリストの全部など未だに読んでいない。でも、一部くらいなら読んだことがあるし関連する書籍もぽつぽつ読んだ、というくらいにはなった。うん確かにヘンだなあと思う本もあれば、そうじゃないのもある。

 で、それを踏まえて今になってこの「さらば二十世紀の迷著たち」を読み返してみると、気になるのだ、いろいろと。

(以下、ページ数や引用などは文春文庫版「偽善系」に基づく)

 まず、最初からなんだかヘンである。だってこれである。

以下に掲げるのは、これまで高い評価がなされことすれ、一般には批判されたことのないものばかりである。

 そこまでいわれたら、ほう。どんな意外な本が出てくるのだろう?と思う。でも、次のページでいきなり出てくるのが

精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)

 フロイトの「精神分析入門」である。
 えー。この章の元となった原稿は2000年にかかれたもののようだが、フロイト批判が2000年まで一般に出てきていなかったというのは素人考えだがさすがに無理があるのではないか。
 例えば、「精神分析に別れを告げよう」という、これはフロイト理論がいかにでたらめで非科学的かを説いた本なのだが、1998年に出版されている。訳書だから原著が出たのはもっと前だ。フロイトというか、精神分析そのものが全否定されている感のある本だけれど。

 それだけではない。例えば、ユングアドラーなどという名前は心理学を専攻したわけでもなんでもない私でも知っている(フロイトとともに)有名な心理学者だが、このひとたちの学説というのはフロイトの学説に批判的になっていった結果生まれたものではなかっただろうか。ネット上の文章だけど、たとえば「日本トラウマ・サイバイバーズ・ユニオン」の用語集でも、フロイトは「生前から膨大な批判や排斥が絶えませんでした」と評されている。とてもじゃないが目立った批判がないとはいえない評価である。ちなみに、この簡潔な用語集の中だけでも、フロイトに対する批判的な視点がいくつも紹介されている(この文章自体は2000年以前に書かれたものではなさそうだが、ふまえてるのはもっと昔に唱えられた見方だろう)。

 あるいは、著者が「自分でフィクションだと認めざるを得ない代物だった」書物として、吉田清治「私の戦争犯罪朝鮮人強制連行」があげられている。

私の戦争犯罪

私の戦争犯罪

 ちょっと前に朝日新聞とそこの元記者がたいへんな目にあった経緯のある本としてのイメージが強いのでどこが批判されてない本なのかと思ってしまうが、それはあくまで2014年の出来事だ。そういえばその少し前にも吉田清治と吉見義明を混同してる人が市長だか知事だかをやっていたなあ、とかいうエピソードも思い出せる。ようするに21世紀には、当たり前に批判のターゲットになっていた本ということだが、はてさて。この本が2000年には、「これまで高い評価がなされことすれ、一般には批判されたことのない本の批判」だったのだろうか。

 この本の記述が「でっちあげ」であるという話は、これ以前からだいぶ広まっていた話のようだ。私がさいしょに読んだ記憶があるのは「産経抄」をまとめて文庫化したものの中でだったと思うが、Wikipediaで出典が明確につけられている記述を参考にするならば、1996年にはすでに週刊新潮で本人がフィクションだと認めているとのことだ。

 そもそも、「自分でフィクションだと認めざるを得ない代物」というのは、それより前にすでに批判がなされていたということだろう。それについての吉田氏のリアクションがあったからこそ、なしえる評価ではないのか。吉田氏がどういう人となりかなど知るよしもないけれど、一般に批判されているわけでもないのに私のルポはフィクションでした、と認めるというのはよほど人間ができている人がやることだし、そういう人が捏造ルポなんて書くのか、という話になる。真面目に考えれば論理構造自体がおかしい。

 本当に「これまで高い評価がなされことすれ、一般には批判されたことのない」本だったら、批判を「自分でフィクションだと認めざるを得ない代物だった」という一文で済ませていいはずがない、それだけでは、「どこが変なんですか?そんな話知ってる?」「さあ」で終わりである。「お前は気づかないかもしれないが、あれはそういう代物なんだ」で通じるわけはなかろう。

 ところが日垣氏はそういう注意書きもなしに、「迷著」にカウントしている。これを踏まえて考えると、この日垣氏の文章は

  1. フィクションだったと断定してしまえば、そうなのかーと思ってしまう人
  2. そうだよねーと漠然でもいいから事情を知っている人
  3. 具体的な内容は知らなくても、自分に都合のよい主張なら納得する人

 などに向けられていたということになる。ちなみに最初読んだときの私は一番目であった。こういうのを情弱という。

 まあ一番目と三番目の人は入るなと言っても入ってくるものなので、意識的にそこにターゲットを絞ったなら極めて悪質だが、そう言いきってしまうのもちょっと邪推がすぎる。おそらく、一番無難な推測は、二番目に向けられたということになる。しかしそれにしても、「これまで高い評価がなされことすれ、一般には批判されたことのない」本ではないだろう、やっぱし。

 もっとも、ちゃんと批判したいなら、ある程度の紙幅をとって、いろいろと参考文献を上げながらやらなければいけない。そんなスペースはない。という反論もあるかもしれない。
 それは判る。しかし、それならそれで、このスタイル(一気に本を並べてバサバサと批判していく)で「これまで高い評価がなされことすれ、一般には批判されたことのない」本を取り上げ、批判するという方法論自体、あらかじめ破綻していたといえなくもないので、どっちみちおかしいのだ。
 こういう形の読書エッセイを否定するつもりはあんまりない。読者と価値観を共有しているのを前提にしていれば、あまり説明がなくてもおもしろく読めるだろうし。だから、もし「一般には批判されたことのない」本を扱おうとしたかったのなら、もともとスタイルとの相性が悪かったということで、案の定うまくいかなかったということになる。